今回は、経済体制の一側面である経営と勤労の意識について、台湾と日本との違いを考えます。

第九回 キャリア社会と年功社会

 1999年度第一四半期の日本のGDPはプラス成長に転じ、内閣支持率も今年に入って急速に上がり約50%に達したことが、この六月に報じられました。しかし、その一方で、新卒者の有効求人倍率は一倍を切るようになり、中高年層を中心とする完全失業率は5%を越えて上昇する気配があります。今後どのように変化が続いていくかは未知数ですが、日本社会にとって何かが大きく変わろうとしているのは確かです。変化の是非はともかく、経済体制の一面としての経営と勤労の意識もそれに応じて変わらざるを得ません。そこで、今回は経営と勤労の意識の面から日本と台湾を比較して見ようと思います。

 最初に、日本人が一般に大きく誤解していることの一つに、日本で今まで一般的だった年功主義はアジア共通の意識だとする一種の思いこみがあります。実は、これは全くの思いこみで、年功主義は日本が育ててきた一つの社会システムであり、アジアの他の国には恐らくほとんど見られない意識と制度です。特に同じ儒教文化の下に育ったといっても中華圏と日本とでは、意識も制度も全く違います。
 基本的に中国文化圏は、歴史上の皇帝の出自などを見れば分かるように、文明を形成した最初から非常にはっきりした、下克上の世界です。端的な例として、前漢の皇帝になった劉邦は、いわば浮浪者・渡世人のような生活をしていた人でした。中国文化圏は、そういう人物でも実力次第で皇帝として天下に君臨し号令できる可能性がある社会なのです。ここから考えられることは、競争原理による淘汰が中国の社会構成の原則であり、実力ある者が徹底的に勝利することを認める文化があるということです。ですから、権力・権威・財力の全てが皇帝に集中してもいいわけで、北京の紫禁城のような大宮殿や故宮博物館にあるような栄耀栄華を極めた財宝が皇帝個人の持ち物として遺されてきたのです。
 しかし、勝者による一方的な収奪と搾取は当然それを憎む大量の社会的敗者を生み出すことになり、権力をうち倒そうとする動きも繁栄と同時に強まって、社会は安定と同時に混乱を宿すことになります。大繁栄した漢や唐などの大帝国の後に、しばらく混乱した時代が続くという中国史のパターンもそこから生まれてくるのです。そこで、安定した帝国を維持するには、儒教のような一種のヒューマニズムが必要不可欠だったのです。儒教の持つ「修身整家治国平天下」という中心的な理念は、支配階級の人間的な鍛錬(修身)、同族の繋がりや年齢による上下関係の尊重(整家)で、一方的収奪を抑制し相互扶助と過当競争の緩和を行って、安定をはかってきた(治国平天下)と言ってもいいかもしれません。科挙のような試験によって人材を登用するようになったのも、皇族や貴族のような支配階級が固定化して次第に競争力が衰え動乱に繋がるのを、常に試験という安定した形で人材を補強することによって防ぐ知恵だったとも言えます。
 中国史を見ると、競争原理とそれを緩和し安定させる原理とのバランスの上に人類史上でも稀な偉大な文明が築かれ長期にわたり維持されてきたという見方が出来ます。そして、春秋戦国時代という自由競争時代に中国の基本的な文化が形成されたことを考えるとき、そこに見られる多様な思想は、現代の言い方をすれば、競争による勝利とその維持・安定の方法だったと捉えてみると面白いと思います。儒家、法家、兵家、陰陽家、道家、墨家など、それぞれ政治哲学でもあり、経営学でもあり、倫理道徳でもあるのがその証拠です。
 日本では江戸時代までその経験は大切に尊重されてきましたが、明治維新以後徐々に、特に、敗戦後になると加速度的に、日本に伝えられていたこれらの中国の経験は封建的で後進的な思想の典型として排除され、全くその意味が分からなくなってしまいました。「封建道徳」のような矮小化された捉え方しかできなくなったのは、実は捉えている日本人の意識の矮小化、硬直化だったのではと、今になると思われてきます。

 本題に帰って、台湾の企業が自社内で勤労者を訓練して育てる年功主義よりも、海外であれ国内であれ即戦力となる人材をキャリアに応じた賃金で採用するキャリア主義に重点を置いた雇用体系を創り上げたのも、アメリカの影響というばかりではなく、伝統的に競争を好む国民の気質に合わせた方法だったのかもしれません。日本で一般に思われているように、長幼の序を重んじる儒教の文化圏だから年功式の考え方が定着するだろうということで、進出した日本企業も最初は日本と同じやり方をしたようですが、能力のある人ほど仕事を覚えたらすぐにもっといい給料を出す会社へ変わってしまったり、自分で会社を始めてしまったりして、ほとんど定着しなかったようです。日本式の思考にあくまでもこだわると、「恩知らず」、「忠誠心がない」、「信頼できない」などマイナス評価ばかりが台湾の勤労者に与えられそうですが、キャリア社会は契約社会でもあるわけですから、契約外の何かをいろいろ要求する日本式経営が嫌われるのは当然ですし、一生同じ会社に勤めるなどという発想のない若者には、四十年先の出世や退職金など絵に描いた餅以外の何ものでもありません。日本式の人生観がどこでも通じるという独断は、発想の貧困というしかないでしょう。
 基本的に台湾企業は日本企業のような官僚機構を真似た大組織を作らず、中小企業中心で人材重点配置型の身軽な組織です。日本のようなややこしい職階も職能もありません。極端に言うと部門の責任者すらいないでスタッフだけがいる場合が少なくありません。必要な人材だけを短期間採用して、その分野の業績がいい間だけ営業する軽量運営方式を採っているので、一生その勤労者の面倒を見る必要がなく、相手の自己責任で契約できるキャリア型雇用制度の方が適していたのでしょう。台湾の勤労者の気質も、安定を求めるより野心的で冒険を好み、自分の仕事に見合った報酬をくれれば不可能を可能にする開拓者的な意気込みがあります。考え方としては、一ステージいくらの短距離型の経営と労働と言ってもいいでしょう。
 また、現在の台湾社会は転職について何の社会的制約もない社会ですから、勤労者はその時時で、苦労はしますが一番自分にいいと思う仕事に乗り換えていくのです。タクシー運転手から教員とか、公務員から自営業など、職種も職業も様々な転職が行われています。サラリーマン的仕事でなく、進んで自営業的仕事を選ぶ場合も多いのです。企業のスタイルもそれと同じで、利潤をあげる目標と方法は見通しにより限定されていて、有利な状況がなくなったり変わったりすれば身軽に転身したり、廃業してしまったりできるところに台湾企業の優位点があるのです。
 企業経営や雇用体系と言っても、従来型のアメリカ型やヨーロッパ型や日本型ばかりではなくて、台湾型とも言える独自のスタイルがあるわけで、「欧米とアジア」のような固定した見方にとらわれていると、台湾のような資源のない小国で国際的にも非常に不利な立場の国が、これだけ短期間に成長できた理由は全く理解できません。経営方法も雇用体系も勤労者の意識も、同じアジアの国とは言っても、日本と台湾とは似ているところは、実は、ほとんどないといってもいいのです。
 当然、短期集中的な経営と雇用では、技術の集積や品質管理が出来ないではないかという疑問が出てくるかもしれません。それに対しては、優良な台湾企業は現場労働者には雇用保障や福祉などの安定化対策を行ったり、日本式のQCを導入して定着を図っているようです。しかし、この点では確かに、長い時間がかかる製造技術の集積は難しく、台湾では例えば精度の高いエンジンブロックが未だに自前で作れないなどの問題が起こっています。特に技術のあるなしがはっきり勝負に出る機械系分野では、圧倒的に日本企業の技術的優位がはっきりしていて、この分野では台湾企業の優位性は価格以外にはありません。台湾経済の発展と言っても、実は得意分野は各種の運輸流通業や鉄鋼・プラスチック、軽工業関係とその延長である電子関係などに限られています。また、総合的で深さがあり、どの分野も同じように一定の水準がある日本の経済に比べると、短期集中型の台湾経済は未来展望に基づく特定分野の重点化によって成長しているのです。
 キャリア型社会の典型として台湾を見るとき、自由競争による大きな成長が見込めると同時に、機敏に得意分野に力を集中する必要があることがわかります。そして、マイナス面としては、総合化や集積や蓄積がしにくいため、絶えず最先端の分野を導入できるように工夫しなければならないということがいえます。今のところ、台湾政府は自分の長所と短所をよく理解して経済・産業構造の調整と転換を図っており、今回出された新紙幣のデザインにも象徴されるように、「若者の育成」と「高度情報科学技術立国」という重点目標を持った二十一世紀に向けた次期重点戦略の動きも既に始まっています。

 一方、日本ではどうだったかと言えば、日本人は歴史から見ると基本的に安定原理で動いており、変動を好まなかったと思われます。その証拠として、ヨーロッパや中国と比べて戦乱期が非常に短いことが挙げられます。日本史上、動乱が続いたのは、 平安時代の終わりから南北朝から戦国にかけての断続的な三百年間と、後は近代になってからの内戦と対外戦争の約百年間で、後は大きな動乱は見られません。全体的には平和な時代が非常に長かったのが、日本史の特徴でもあります。これは大きな戦争が常に尽きなかった中国史やヨーロッパ史と比べればはっきりした違いで、日本人の特徴でもあると言えるでしょう。このことは、競争して他者を追い落とし、権力と権威と財力を一手に集めるというような生き方を必ずしも理想とはしてこなかった からだとも言えると思います。
 その一方で、血統を重視する連続型・相続型社会であるといえます。天皇家を見れば分かるように、伝承としては「万世一系」が権威の源泉でありえるというのは、実力によって前王朝を滅ぼし、交代の権威づけに「天命」や「神」を立ててきた中国やヨーロッパとは全く違う意識です。武家の頭領も「源氏」に限られていました。戦国時代が実力本位と言っても、中国とは違って、信長は平氏、秀吉は藤原氏、家康は源氏という具合に事実はともあれ血統が権威付けに必要とされたのです。
 その両者が非常にうまく組み合わされた時代として、江戸時代を見ると、今でこそ封建時代として全く否定されていますが、戦国時代という日本には珍しい競争時代を勝ち抜いた徳川幕府の体制は、現在の研究では非常に面白い制度を作っていたことが知られるようになってきました。
 まず、教科書の統制的な武家政権というイメージとは逆に、江戸幕府の体制は基本的に非常に小さい政府でした。体制自体は軍人である武士を支配階級とする軍事国家ですが、人口の5%にも満たない人数で、しかも役職は血統主義で各家の仕事として世襲されていましたから、いくら子供が多くても全員がその役職に就けるわけではなく、相続者はたった一人で、他の兄弟は身分としては武士でも、そのままでは何の力もありませんでした。他家に出るか、武士を捨てるかしなければ、一生独立できなかったのです。そのため、階級構成員は増えようがなく、農民・町人・商人などの生活へ細かい干渉ができるほどの人数は当然いませんでした。江戸の町では市民人口50万に対して、同心などたった300人程度の担当者が配置されただけだったといいます。何となく思いこまれてきたように江戸時代が擬似ファシズム体制で細かい規則で生活を縛っていたというのは、戦前の戦時体制の記憶を投射していただけで、細かい規則はいろいろあっても、運用面では「**の改革」の時代を除けば、重大事以外は実際にはほとんど放任されていたのではないかと思われます。江戸時代の町人文化は、このような自由の中で生まれたものだったのです。出版や言論の規制など、実は明治初期の藩閥政府や大日本帝国の方がよっぽど厳格だったことを示す証拠はいくらでもあげることができるでしょう。「近代の自由」など実は誰かの宣伝ではないかとも思われます。
 また、鉄砲隊の運用だけ見ても、十七世紀初頭ではおそらく世界最強の軍事国家であったにもかかわらず対外侵略を始めようとはせず、鎖国の形で、国内へ閉じこもってしまったのも象徴的です。一方、ヨーロッパは十五世紀頃から、対外侵略を始め、アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸の大半を占領し、巨大な植民地帝国を作りあげました。今見るヨーロッパの 都市の重厚さは、実はそれらの植民地の血と汗からなっていることも見逃してはなりません。国内の平和を選んだ日本人とは全く対照的な行き方です。
 第二に、封建社会という思いこみで、権力者に全てが集中しているイメージが持たれていますが、これも戦前の軍事体制の過去への投射にすぎず、実は、江戸幕府は徹底的に集中を避けるシステムを創り上げていました。幾つか例を挙げれば、まず都市と地方です。主要都市は三都と言われるように、大阪は経済、京都は文化、江戸は政治という都市ごとの機能分化がはっきりした特徴で、明治以降のように東京へ何でも集中させてしまうやり方ではありませんでした。当然、各地の藩は独立した行政単位でしたから、内政に関して幕府から細かい運営を干渉されることもなく、独自の文化を発達させていきました。ここには、一地域に力を集中させることを避けるという傾向がはっきり見られます。もし教科書の内容通り強権的政権なら、取り潰した藩を幕府領にしてどんどん中央集権化を進めるはずですが、そういう動きは全く見られません。当時のヨーロッパは、教科書通り教会領や貴族領を没収して王領を増やすという強権化を進めており、それは近代化過程では必須の動きでしたが、日本では全くそういう動きはありませんでした。
 さらに、身分と経済力、生活の自由さが一致していないのも面白いことです。支配階級である武士階級は、権力を担っていましたが、一般には非常に貧しかったと言えます。一生固定した扶持米だけで、武士の威厳と格式を保つのはいろいろな物語に出てくるように苦労が絶えず、しかも、非常に面倒な生活上の作法がいろいろありました。武家の女性は外出すら思うに任せなかったのです。勿論、時代劇のように気軽に町家へ出かけて飲食したりすることなどは、身分を隠せば別ですが、公式には身分が上がるほど不可能でした。上位者ほど不自由な体制だったのは、今とは正反対です。つまり、権力者には権力があるかわりに、制約も多くあり、また財力も独占させない体制でした。他方、権力のない農民・町人階級には逆に財力や自由がありました。商人の繁栄ぶりは勿論、農家の二、三男が、大都市へ行って商人になったり、学問をしたりして、職業を選ぶチャンスもあったのです。
 江戸時代の文学には両階級の対照的な姿がはっきり描かれています。とにかく支配階級のモラルとして、「財は卑しい」と言った民族は日本人が初めてかもしれません。それと反対なのは、「私は国家の太陽である」と言ったというフランスのルイ14世の感覚や、日本で言えば平安時代の典型的貴族で『源氏物語』のモデルとも言われる藤原道長の「望月」の歌でしょう。結局、ルイ王朝は間もなく革命によって滅ぼされ、藤原氏の栄華は武士にとって変わられることになりました。権力・権威・財力を独占した階級の記憶は、現在では文字の歴史でしかありません。しかし、「財は卑しい」、「一名を立てる」という江戸時代の武士の感覚はつい二十年ほど前までは、どこかで生き続けていた感覚です。
 ヨーロッパでは同じ時代、絶えず戦乱が続き、また、対外的にも侵略を繰り返しながら国王や貴族が富と権力を集中させて今見るような町並みを形成し、芸術と音楽のパトロンになり、**宮殿のような華麗な建築を生み出したのですが、日本は、江戸時代の二百五十年間、ほとんど動乱はなく、当然侵略などもせず、平和な中で庶民が浮世絵や歌舞伎のような様々な芸術、芸能と様々な大衆文学を生み出したのが中心で、ヨーロッパのような支配階級のための施設や文化は限られています。近世のヨーロッパも日本も、どちらも身分制社会で軍事的性格の体制でしたが、そこから生まれた文化は全く似ていません。結局、基本的に大切にしていたものが全く違っていたとしか思えません。江戸時代の文化については分かりやすい石川英輔氏の『大江戸庶民事情』(講談社文庫)などをご覧になるとおもしろいでしょう。

 いずれにしても、動乱と安定を繰り返した中国は競争原理による集中化が社会形成の基本にあり儒教や仏教のような安定化原理を探るのが社会にとっても大きな問題だったのですが、逆に、血統を重視する連続型・相続型社会で、競争を好まず、平和な時代が普通だった日本では安定化が中心原理で、問題は活性化のほうだったのかもしれません。もし、欧米人が武力で進出して来なかったら江戸時代は今も続いていたかもしれません。
 しかし、現在ではかなり知られているように、江戸時代は決して停滞した社会ではありませんでした。農業技術、文芸、芸能、工芸、諸々の学問などいろいろな方面で日本独自のスタイルができあがって、発展していました。一例を挙げれば、「国学」といわれる言語研究ですが、方法としては用例を集めて法則性を見いだすという現在と同じ方法が既に生まれて、動詞の活用規則や助詞の役割が見いだされていました。これは別にヨーロッパから学んだものではありません。辞書づくりなどから国内で独自に生まれてきた方法なのです。これらは、安定した形での穏やかな進歩として非常にゆっくりですが確かに進行していたのです。
 私は穏やかな活性化の原理として、日本人が選んだのは、多様性の原理だったと思います。江戸幕府が小さい政府で最低限の統制しかしなかったこと、徹底した地方分権であったこと、身分といっても上位者が全ての力を集中していたわけではないことなどは、すべて、この原理の現れではないかと思います。小さい国内であっても、それぞれの地域が独自の行き方をすることによって、多様性が生まれ、海外と交流するのと同じ結果になるということです。参勤交代などで全国のいろいろな習慣が混ざり合った江戸では、町が出来てたった二百年で、化政文化のような世界的にも稀にみる豊かな消費水準を持った庶民文化が花開きました。そして、そのような花は、京都、大阪、長崎など各地にそれぞれ独自の文化の結晶として生まれて、それぞれの特徴を生かしていたのです。
 また、一定の身分が全ての力を握らなかったのも、独占による腐敗と退廃を防ぐ知恵だったのではと思われます。ヨーロッパ的な三権分立とは違いますが、支配階級ほど経済的制約があり、生活面での規制が多かったのは、一種の分立と言えると思います。暴走しない安全装置と言ってもいいかもしれません。片や、全ての力が支配階級に集中していた中国では、いったん、支配階級が腐敗し始めると、それを止める手段がなく、急速に社会崩壊が始まり反乱や異民族の侵入によって、巨大な帝国が跡形もなく滅びてしまいます。漫画やゲームで人気のある「三国志」は、腐敗によって後漢帝国が崩壊した後の再競争時代の出来事なのです。その点、内部崩壊の目をうまく調整していた江戸時代は、外圧があるまで、全く崩壊の兆しはなく、非常にゆっくりではあっても発展していました。「封建時代」のような思いこみを離れてみると、独自の社会哲学によって非常に巧妙に運営されていたことが分かると思います。

 日本式の年功主義も、実はこのような多様性とバランス感覚から生まれてきたものかもしれません。この制度や意識がいつから生まれたのか?発生については諸説がありますが、明治以後、近代国家が発達する過程で形成されてきた慣習であることは確かです。詳細は、それぞれ研究をみていただくとして、この制度の利点は既に80年代に日本ばかりでなく各国の学者からも研究されて国際的な評価を受けていますから今更いうまでもありませんが、特に強調すべきは、会社に忠実なスタッフを育てながらスタンスの長い会社経営が出来ること、技術やノウハウの集積・蓄積が行われて基盤が強固になること、勤労者にとっては、仕事に習熟しながら冒険や無理をすることなく長い目で生活設計が出来ること、競争の敗者を最小限にとどめ社会を安定して発展させられることなど、いくらでも挙げることが出来ます。
 ただ、誤解のないようにいっておきますが、戦前は今のような年功主義は全く主流ではありませんでした。戦前の体制は、典型的には「女工哀史」に見えるように労働者を「もの」扱いして消耗していた時代だったのです。そのため、先端技術を導入しても、現場で十分消化することも製造技術を独自に集積することもできず、大半の分野で、工場で作られた日本製品の品質は劣悪粗悪で、「安かろう悪かろう」の典型と言ってもいい状態でした。二十世紀前半のハイテク製品だった船舶・自動車・飛行機用のエンジンにしても日本では、大きく出来る船舶用以外、まともなものを作ることが出来ませんでした。大半は輸入品だったのです。その端的な例が有名な戦闘機の「ゼロ戦」の場合で、既に中国との戦争時代であったため、優秀なアメリカなどのエンジンは使えず、やっとできた国産の小型エンジンを搭載したために、出力不足で今度は防御力を全く考慮できなくなり、その結果、太平洋戦争でどれだけ無駄死にをしたパイロットが出たかは戦記に書いてあるとおりです。
 労働者の命にしろ、兵士の命にしろ戦前の日本の体制は、全く人命を消耗品扱いしていたために、いくら先端技術があっても、結局、製造現場で大切な経験と技術が集積できず、せっかくの現場の人材も育たず、経済的社会的な基盤の充実はほとんど行われませんでした。外国帰りの技師や帝大出の管理職がいくら優秀でも、製造現場の経験が生かされないため、机上の空論に終わり、実用化する場合、何の意味もありませんでした。
 言ってみれば、戦前の日本資本主義は文化レベルが高いとはお世辞にも言えない維新の志士などを中心にする政府に相応しい「略奪経済型資本主義」だったのです。その結果、競争力も生産性も最低に近く、1929年からの「世界恐慌」の打撃を全く吸収できず、中国への侵略を始めざるを得なくなって慢性的な戦争状態に陥ることになりました。その後も、大陸全土へ戦火を広げざるをえなくなり、莫大な戦費と若者の大動員によって1939年には既に経済衰退が始まって、経済弾性を失っていました。そのため、さらに東南アジアへ戦火を拡大し始めるという悪循環に陥り、アメリカ・イギリスなどとの対立を決定的にして、無謀にも更に太平洋戦争を1941年から始めた結果、とうとう明治維新から約八十年ほどで「大日本帝国」は1945年に完膚無きまでに瓦解したのです。戦前の日本の姿を見ると、経営方式や雇用体系がいかに社会全体に影響を与えているかよく分かると思います。
 一方、民主化や労働運動などの結果、福利としての年功主義が定着して次第に先端技術開発・導入と経験・知識の集積とがかみ合うようになった戦後の日本では、特に70年代不況を乗り越えるためにTQCのような年功主義を生かした経営が行われるようになり、80年代に入ってそれが実を結んだ結果、「Japan as No.1」とまで言われるようになりました。80年代の日本経済の成功は、年功主義を最大限に生かした上に生まれた技術力と人材によるところが大きかったのは今更言うまでもありません。しかし、忘れてはいけないのは、それが元からあったものではなくて、特に戦後の多様な思想と運動のぶつかり合いの中から今の形に形成されてきた制度と意識であるということです。「あった」のではなく「作ってきた」ものなのです。その意味では、現代日本社会の財産の一つなのです。
 しかし、バブル以後、年功主義に対する評価は百八十度変わって、今年始めには「経済改革会議」によって年功主義の否定と競争原理の導入が宣言されました。巨大企業の多くが既にそれ以前からリストラの名によって年功主義の解体を行っていましたから、この動きは今後ますます加速するようになるはずです。基本的には年功主義は先端技術の消化や製造技術の蓄積に向いた考え方ですから、今のように急速に技術開発を進め経済変動に対応すべき時代には、対応しきれない面があるかもしれません。ただ、台湾のところで見たような対極のキャリア主義にも、それが向いている分野とそうでない分野があったことを忘れてはいけません。特に製造関係では短絡的なキャリア主義では、何よりの財産である技術や管理法の蓄積を失うことになりかねません。また、アメリカのように、全部を個人や法人の特許のような形で管理しようとすると、逆に製造技術自体が全然発達しない事態もおこりかねません。自動焦点カメラの特許裁判などに見られるように、「いいがかり」や「因縁をつける」としか思えないような裁判がまかりとおる社会では、長い目で見たとき、まともな民生製品を作れる会社など成長できる道理がないのです。・

 さらに、注意すべきは、現在の不況は日本経済全体の競争力が低下しているわけではなく、建設、証券、金融、保険、不動産など、どちらかと言えば今まで国内的な性格しか持っていなかった「後進的」産業が軒並み日本経済の成長力を奪っているということです。これらの産業がバブルのツケを国民経済全体へ転嫁しようとしていると言っても言い過ぎではありません。分野によって凹凸がはっきり出てきたのは、当然のことで、今落ち込んでいるのがいずれも実は年功主義には向かない、情報に左右される知的なホワイトカラー的仕事である点にも注目すべきです。これらの分野では、情報収集と分析力が何より大切で、機動的で変わり身の速い対応が勝負です。が、特に経営陣が年功的な体系によって動いていたこれらの会社は、バブル期に全く経験のなかった海外分野へ投資を始め、見通しを誤ったために、それが軒並み焦げ付いて巨額の損失になっていったことなど、国内の失敗ばかりでない二重三重の失敗をしていたことを忘れてはいけません。これらの分野では、完全に日本勢は敗北しました。情報と機動性が命である分野では特に経営陣が年功主義では競争には向かないのです。
 利点と欠点をよく知ることで、産業構造の柔軟な転換を図れば、過度の無意味なトラブルを避けることが出来ると思いますが、これから先、それぞれの分野の特性に応じた柔軟な構造への転換がはかれるかどうか、勤労者にとっても、一元的にはいかない時代になってきました。これは、考えようによっては大きなチャンスで、海外へ出るなりして、国内の学歴だけでやってきた人とは、違う歩みをした人にも機会が与えられる日が来るようになるでしょう。野心のある人ほど、通り一遍ではないキャリアを積むように多様な道を選ぶべきです。変動の時代と言うことは、チャンスがどこにあるか分からない時代と言うことです。もっといえば、いくらでもきっかけが見つかる時代なのです。今までのような国内的な学歴中心の考え方では経験は限りがあり、発想も固定しがちです。視野を広げフットワークを軽くすることを第一に考えていく時代です。
 とにかく、台湾や日本の経験から分かることは、キャリア主義にしろ年功主義にしろ、一長一短があるということです。欠点をカバーする工夫がなければ、成長を続けることはできません。その点で、キャリア主義の運用は日本社会では今までまったく経験がなかっただけに、非常に難しい問題を生じさせるかもしれません。また、自分の土俵でなく相手の土俵で勝負するのは、非常に不利です。その上、実は指導部がキャリア主義でないとキャリア主義は非常な不公平を生み出しかねません。現代日本の「支配階級」(政治に直接の影響力を行使しやすい社会階層や職業人の意味です)といえる政治家、官僚、企業経営者、財産家、医者・弁護士などのハイステータス階層は、広い意味で「世襲」(一般に言う親から子へ相続する場合ばかりではなく、支配階級的仕事内部での相続、例えば医者の父が子を官僚にするなどという場合も含む)される傾向が非常に強まっており、キャリア主義とは正反対な行き方を進んでいます。日本の場合、上位階級ほど成員とその一族が固定化していて、実は世代交代も多様化も進んでいません。はっきり言えば現在の日本の状態は、中国大陸の大帝国で腐敗が始まった状態と何ら変わりません。権力と財力と一定の権威を独占した階層が生まれるのは、実はその民族にとって非常に危険なことなのです。その上、支配階級としてのプライドもモラルも見識もない、傲慢で学歴だけの二世三世ばかりが権力や経済のトップに集中したら・・・。今、その傾向が政治や行政や経営の至る所に出ているのではないでしょうか。
 近代日本はこれと全く同じ失敗を実は一度したことがあります。1930年代から始まった戦時体制化と一連の対外戦争です。教科書などには勿論出ていませんが、この時代はすでに政治家も官僚も軍人も経営者も学者も、明治の元勲などを中心にする一族、それらと共に東京へ集まった藩閥系の血族、維新後立身出世した関係者によって、かなり独占されていた時代でした。父が官僚で、息子は高級軍人というように、受け継がれる分野は同じとは言えませんが、支配階級的仕事を血族者が占める傾向が非常にはっきりしていました。その上、明治時代にはまだ残っていた支配階級のモラルや見識はすでに失われて、能力はあっても、見通しの狭い、目先の利益だけを考える二世三世ばかりになりつつあった時代です。太平洋戦争を始めた首相の東条英機なども典型的なこういう世襲家族出身の軍人でした。近代になって入学試験などで優秀な人材を選ぶようになったというのは名目に過ぎず、それぞれの業界の内部事情は実はかなり固定化、硬直化していたのです。支配階級が固定化した上に貧富の差が拡大したらどうなるか、「改正治安維持法」などはその対策のためにつくられたともいえるものですし、中国との無謀な戦争を始めたのも、世襲家族出身で、かつ当時は最も入学が難しかった陸軍士官学校・陸軍大学出のエリート参謀達でした。
 金や元という外敵を受けながら、党派争いを繰り返すばかありで亡国を導き、民族を塗炭の苦しみに遭わせた中国の宋の官僚達を挙げるまでもなく、既得権益を守ろうとする腐敗した支配階級は、いつの時代でも、その民族と社会の大災厄になりかねません。どのように交代を図り、硬直化を防ぐか、日本の場合は外圧を利用するしかないのでしょうか? あるいは、穏やかに交代を進める方法があるのでしょうか?一つの試案として、江戸時代の知恵に学ぶなら、とにかく、まず、中央集権化を排して徹底的に再分割することが必要です。例えば、中央省庁は連絡と調整のために残すぐらいにして、あとは各地方へ権限を分割してしまうぐらいの思い切った分権が必要でしょうし、首都は京都に、政治は大阪に、経済は名古屋に、情報は東京に、というような各地方の機能分化も大切でしょう。
 
 現在叫ばれている能力主義、キャリア主義の導入は、今の日本の体制では、固定し始めた「支配階級」をもう一度活性化しないと、十分に機能しません。台湾で見たように、このやり方は指導部の判断力が勝負であり、安全な賭け方ではなく、一か八かの勝負に近い綱渡りをしているので、誰でも成功出来るものではありません。台湾が現在、世界的な電子工業の基地に成長できたのは、すでに十年以前からの重点的な政策のおかげで、一朝一夕になったことではありません。そこには、たとえば李総統自身がメインフレーム時代からの大型計算機の使用者で、何が必要か判断できる経験があったことなども、政策決定に大きく関わっていたといえるでしょう。とすると、そういう人材が今でもほとんどいないか、表に立てない日本の政界や官界の将来に対する見通しの能力は、自ずから限られて来るでしょう。キャリア主義の世界では、働く者の意識ばかりでなく、特に上位陣の情報力と判断力とに結果の多くがかかっているのです。
 その点、前回も書いたように、今の日本の指導部は分野によらず、政界、官界、財界、学界、教育界など、あらゆる分野で見通しを立て、次世紀を考える力を失っています。果たして、それぞれの分野で適切な構造転換策と先見性のある政策が出せるかどうか、非常に疑問が残ります。今の顔ぶれでは何年経っても、たぶん何も新しいことは出てこないし、何か出しても効果はたかがしれているでしょう。その一方で、キャリア主義に相応しい自由競争の風土は日本の社会には特に「官」関係にはにほとんどありませんし、雇用の体系もいまだ年功時代とさほどかわらず、その上、生業に対して政令や省令や法律で厳しい枠がはめられて、たとえば駅前広場で持ってきた野菜を売る自由や空いている歩道に露店を出す自由すらない状態です。キャリア主義は基本的には全面的な経済的自由によって成り立つシステムです。しかし、その点は日本ではほとんど理解されていません。
 それとは正反対に、法律によって競争や生業を規制したり保護したりする統制経済で、ある意味では社会主義経済に近い社会管理をしている日本社会で、今のような統制を続けながら、キャリア主義を導入するとどうなるか?まず、はっきりしているのは今後、短期間の内に、貧富の差とステータスの差が急速に拡大して、競争の敗者が年齢層を問わず大量に生まれ、犯罪率が激増し犯罪が凶悪化するなどの社会問題が新たに生じるということでしょう。最も極端なキャリア主義を進めているアメリカ社会を見れば、繁栄と同時に大量の犯罪者の発生という問題といつも直面していることから、これは容易に予想できます。そして、景気の回復が予想通りに行かない場合は、その上に、さらに非常に深刻な社会不安が生じる恐れもあります。
 私としては、統制経済に慣れた日本では、年功主義を活性化する方策を考えて柔軟に対応した方が風土には合っていると思います。たとえば、人員整理より社員全員の賃金のカットで、雇用を続ける方がまだいいと思います。今のような一方的人員削減を続けていると会社に対する信頼感が失われ、見合った金額をもらえば企業の秘密を売り渡してもいいと考える社員が若い世代には当然たくさん出てくるでしょうし、技術の蓄積が必要な現場やチームワークの必要な職場は、今までのようには管理できなくなり、日本企業の優位点だった集団性や一体性は姿を消していくでしょう。特に構造転換と言っても転職先の新産業がなく、経済規模が基本的には収縮している現在の状況では、今の失業や解雇は社会に対する諦めや憎悪にこそなれ、1970年代のような配置転換、構造転換にはとうていなりません。そして、台湾のようなキャリア主義に相応しい風土が日本に生まれるかどうかといえば、今のところは全く可能性がないと思われます。社会は生命体ではありませんが、歴史的形成体として生命と似たところがあり、小手先で木に竹を接ぐことは出来ないのです。
 その意味でも、自分と競争相手の姿をよく知り、一番自分に相応しい道を選ぶ見識が特に指導者層には求められているのです。
 最後に、しかし、不運にも失業したらどうするか?私は同情などしません。逆に、これをチャンスと捉えて、老後のことや子供のことを今までの単一化された路線に乗せようなどと硬直して考えず、「太く短く」考えて、例えば留学したり海外へ投資移民に行くなど、自己投資してはいかがでしょうか?さがせば移民を募集している南アフリカとかカナダなどの国もあるのです。家屋敷や保険などを売り、貯金を入れれば海外では円高の今なら、かなりの資産になります。何か特技のある方ならなおさら、海外にはチャンスがいくらでもあるのではありませんか?人生など実は波風がないのがおかしいので、家族と一緒に苦労するなら仕事ぐらい何をしても生きられるでしょう。今までのような楽な仕事で高収入がいいとかステータスがどうこうとかは、自分の都合で、そういうことにこだわっているのは、それだけの価値観しかない人間だと私は思います。
 こういう私も実は契約期間はあと少ししかありません。今のままでは何をどうしても勤められる年限は限りがあり、あとは失業です。そして、台湾では年金など勿論ありませんし、現場の労働者以外には失業保険もありません。台湾の大学教員の場合、外部の昇格審査に通らないと、先はないのです。その意味では不安と言えば不安ですが、でも、日本の年功社会の単調さや退屈さからは自由ですし、ばかげた単一思考に、もう苦しむこともありません。子供を幼稚園から有名幼稚園に進学させなくてはなどと、どうしようもないことで悩む必要もありません。外国人の立場というのは、実は非常に自由で気楽なのです。古いことわざですが、「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのは、こんな場合にも言えることだと思います。
 そして、日本のしがらみから自由になったとき、逆に見えてくる広い世界があります。「禍福はあざなえる縄のごとし」とはよく言ったもので、日本社会には適応できなかった私は、転職を繰り返して、家内のおかげで台湾にたどり着いたのですが、台湾で生活することが出来て、今は生き返った気がしています。日本に適応できなかったのは不幸ですが、でもおかげで束縛を離れ別の天地を与えられました。大量失業時代・就職難時代といっても発想を変えれば前途を悲観する必要は全くないのです。発想を転換できた人々の間から次の世紀を開く可能性も生まれるのです。

第九回終わり

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