今回は、宗教の観点から台湾と日本の民族性と精神性の違いを探ってみたいと思います。

 今から思い返すと、高度成長期の五十年代から六十年代にかけて「実存主義ブーム」が起こり、その後、バブル崩壊前後の八十年代後半から九十年代始めにかけて、今度は「こころの時代」などということがしきりに言われ始めました。しかし、いずれの場合も問題性への視点が深まる前に、宗教だ哲学だ生命だ環境だ自然だと問題が拡散して、自覚的な検討は置き去りにされてしまったように思われます。そして、その一方では、様々な新興宗教による事件や問題が相次ぎ、悪質化して、経済や社会の運営ばかりではなく精神についても日本人は混迷を続けていると言っても言い過ぎではないでしょう。「人生」とは何か、「人間」とは何かという基本的な精神性について、日本人の大半が自信を持って子供達に答えられない状態が続いています。精神性を失ったとき、その民族は衰退していくという見方ができるとすれば、日本にもその危険が迫りつつあるというのは、まんざら大げさではない気がします。
 今回は精神性を最もよく象徴する宗教をテーマにして、台湾と日本とを比較し、その民族性と精神性の違いを明らかにしたいと思います。
 
 台湾の宗教を見たとき、そこには日本と同じような宗教的形態と同時に日本では既に失われてしまった形態をも見いだすことが出来ます。台湾の宗教としては、以下のような分類が出来ると思われます。
(1)在来型の大衆宗教
(2)在来型の寺院仏教
(3)在来型から生まれた新興宗教
(4)外来の宗教
 まず、分かりやすいものから見ていくと、このうち(4)の外来の宗教は、事情は日本と全く同じで、このうちにはキリスト教とイスラム教、および海外から来た新興宗教が入ります。しかし、イスラム教は台北などにモスクがある程度で、一般には全くおこなわれていません。一方、キリスト教は、台湾で近代化が始まった十九世紀後半から宣教師などが活動して、学校や教会や病院をつくって布教を始めました。今でも、その事績が讃えられている人物が少なくありませんが、代表例として十九世紀後半、カナダから来た新教徒、馬偕博士は、台北や淡水などに、病院や学校を建て、近代文明を台湾に伝え、生涯を台湾で過ごしました。今でも博士の作った病院は大きな私立病院として残っていますし、学校も発展して大学に昇格しようとしています。十九世紀後半から、日本人より早く近代文明を持ち込んだのは、これらの宣教師達でした。この辺りの事情は、明治初期の日本とよく似ています。
 しかし、結局、キリスト教自体は日本と同様、大衆にはほとんど広まっていません。現在、台湾のキリスト教徒は、人口の三パーセント程度で、どちらかといえば、留学経験がある人や高等教育を受けた教養ある階層の人に限られているようです。現大統領の李総統もキリスト教徒で、政治家や大学教官にも信者は少なくないですが、大衆的広がりはなく、民族にとけ込んだとはいえないようです。この点は、日本のキリスト教徒と事情は似たり寄ったりでしょう。
 その一方で、新興の外来宗教もかなり入ってきています。モルモン教、エホバの証人、統一原理教会、創価学会、親鸞会などキリスト教系、日本系の新興宗教がいろいろ活動しています。新興宗教と経済力は相関関係があるという見方をすると、布教の対象として台湾も格好の「市場」なのかもしれません。しかし、これらもキリスト教と同様、大きな勢力にはならないでしょう。というのは、台湾では(1)と(2)の在来型宗教が非常にしっかりしていて、大衆の生活に根を張っているからです。

 そこで、次に、在来型宗教を見ると、日本にはほとんど見られなくなった形態が(1)の分類とした台湾の在来型の大衆宗教です。日本では道教と仏教のような「区別」にこだわる学者や宗教家が少なくありませんが、現在の台湾の寺院や神社の形態から判断する限り、(1)の在来型の大衆宗教では、両者の区別にはほとんど意味がないことが分かります。
 西門町のある寺院を訪れたときでしたが、主神は道教の神様で、副神はなぜか日本の真言宗の開祖・空海の掛け軸でした。また、北投の関渡宮に初詣に行ったときでしたが、一つの山全体にいろいろな社や寺院があり、道教の神様も閻魔大王も観音様も全部一緒に祀られていました。そして、浄土教の『観無量寿経』を解説した壁彫刻と同時に、帝釈天、毘沙門天など仏教の守護神の彫刻も飾られていて、実に不思議な世界を造り出していました。
 大衆宗教の中には、こういう場合ばかりではなく、日本で言えばお地蔵様に当たる土地公、三国志の英雄・関羽を祀った関帝廟、日清戦争後、占領軍として来た日本軍相手に神出鬼没の抵抗を繰り広げた抗日の英雄の神社もあります。台北の郊外、八里にあるその神社は三階建で門前町まである、随分立派なものですが、彼だけを祀っているのではなく上層には他の神仏や人物も同時に祀られていました。そして、篤志家が寄贈した『大無量寿経』もご自由にお持ち下さいと置かれていました。これを日本にあてはめると、例えば吉田松陰の松陰神社に阿弥陀様や天神様やお稲荷様が同時に祀られているのと同じことで、しかも、浄土真宗の本が寄贈されて置かれているということになります。細かく別れてしまった今の日本の大衆宗教の形態からは、考えられないことです。
 台湾の、このような祀り方の事象そのものを名付けるとすれば「重層的祭祀」というべきで、この祀り方からいえることは、「尊い存在」を記念し尊崇するという意識があるだけで由来を問題にはしていないということです。これは、歴史的にも、何世紀にも渡ってインドや西域から仏教が入ってきて生活に根付いた中国文化では、土着の道教などの習俗と分かちがたい形で仏教が民衆の間に浸透したのであり、道教と仏教を違うものとして大衆がとらえることはなかったことの反映と思われます。
 実は、日本では、明治以降、道教・仏教・神道のような区別が、宗教政策として大衆に強制され、神道と融合していた仏教は、全くの「外来宗教」であるとして、「排仏毀釈」のような形で、分離されてしまったため、台湾に見られるような重層的祭祀を失ってしまったのです。
 しかし、江戸時代までは、大衆にとって両者には何の区別もありませんでした。お寺と神社が一緒にあるのが、浄土真宗の盛んな地域は別として、日本の大半の地域では当たり前だったのです。鎮守の神と藩主の菩提寺が一緒になっていたり、隣り合っているのは珍しいことではありませんでした。また、今では全く衰退してしまった、山伏が全国を行脚する山岳仏教は山岳信仰と仏教と仙術修行とが一体化していたといってもよく、神・仏・道の混淆した日本的形態の代表とも言えるものでした。
 今では、何がどうだったのか、私たちはこの百五十年ほどの間に、先祖が伝えていた在来宗教の記憶のほとんどを失ったと言っても過言ではないでしょう。強権による分離と、その時代に生まれた歪んだ宗教意識は今も続いています。近代化の誤った舵取りで私たちが失ったものは、実ははかりしれませんが、明治維新を成功ととらえる、例えば司馬遼太郎のような見方を典型的な例として、明治維新とそのようなかたちでの近代化を肯定する尺度から見れば、「神仏道混淆」などもってのほかなのでしょう。
 いずれにしても、現在、実際の台湾の宗教の姿に対しては、日本の学者や宗教家は「道仏混淆」のような批判的な意味をも込めた言い方で片づけてしまうだけで、「本来由来の違う、別なものを一緒にしている」としか見られなくなっています。が、これを「混淆」と言っているのは、いい意味では日本人の独自の感覚、つまり混沌を嫌い純化する傾向が強い日本人の精神性の現れですが、悪くいえば、ばらばらに分けると生命を失う存在を自己の判断で分けようとする「独善」にすぎません。
 実は大衆宗教としては、このように由来の区別なく「尊い存在」を教え祀るのが本来であり、東アジア的な大衆宗教の本当の姿ではないかと、私は思います。というのは、台湾の大衆宗教では、どの神社も寺院も、同じようにあくまでも具象的に彫刻や飾りや壁画などで神仏の姿形を描き、極彩色に彩られています。おそらく革命前の中国大陸や日本に併合される前の韓国でも、事情は同じだったでしょう。タイやビルマなど南伝仏教と言われる地域でも、寺院の荘厳はあくまでも華麗です。これは、具体的なもので、人智を越えたはたらきを象徴しようとしているのではないかと思われるのです。
 考えてみれば、大衆宗教はもともと文字の分からない大衆のためのものであり、大きく広い門戸を広げて、大衆に「尊い存在」がいつも人間を守っていてくださると、具体的な形象を通して生活感覚として伝えるのが役割だったといえるでしょう。そのため、現在でも、子供が立派な寺院や社の絵や彫刻を見て「これは何」と興味を持って聞いて、お祖父さんやお祖母さんが、これは「お釈迦様」だ、これは「馬祖様」だとか、「関羽様」だと説明して、民族の物語を語り、人間の命をはぐくんだ大いなる世界を伝えることができるのです。日本人はもはやどのようにしても、「卑弥呼の時代」の人物を思い出すすべはありませんが、中華民族は千数百年前の「卑弥呼の時代」つまり「三国志の時代」の人物である関羽を信義を守る民族の手本として、今まで大衆の伝承としてこのような形で伝えてきたのです。
 この感覚は、江戸時代まで日本人もはっきり持っていた感覚でした。例えば丹波の国では、戦国時代の明智光秀の善政を讃えた明智神社がつくられたり、また、江戸時代には全国に一揆の指導者を讃える神社がその土地その土地に残されたりして、その記憶を伝えてきたのと同じです。公式的見解では反逆者として済まされてしまう人物でも、そういう公式的見解では済まされない事績を大切にする心意気は、日本にもはっきりありました。確かに今の日本では、ほとんどなくなってしまいましたが、台湾では混沌とした祭祀の形態の形で、大衆の中に民族性と共に宗教性を伝える在来宗教が今も生命を保っているのです。台湾では、大衆仏教の神社や寺院に、初詣では勿論、一年を通じて、参拝する親子の姿が絶えません。日本と同じように、受験の神様を拝む受験生と同時に、幼い子供も祖父母に手を引かれて、不思議そうに並んだ像や荘厳を見ています。
 多くの日本人は、その姿を「迷信」と笑いそうですが、私は、日本で正月や受験のとき「だけ」、なぜか訳も分からずに神社に行ってお金を上げて願い事をする習慣の方が、よっぽど迷信ではないかと思いますし、キリスト教式で結婚式をするのに、葬式の時だけ、なぜか僧侶を呼ぶ習慣は、もはや人生の大事が習俗としてしか理解されない、深みを失った精神世界を象徴する出来事だと思います。そして、美術的立場から鑑賞されるに過ぎない寺院や仏像などは、ただの工芸品・芸術品にすぎず、宗教とはもはや何の関係もありません。こういう日本人の姿を見て「宗教に寛大だ」とか、逆に「日本人は宗教に対して曖昧だ」などという知識人がたくさんいますが、傍観者のそういう立場で、いったい子供に学校では教えられない、民族の記憶や文化や精神性を伝え、教えられるのでしょうか?建物を拝んだりするばかりで、生と死の意味を語る言葉を持たないで、大切な世界を伝えられるのでしょうか?考えてみれば、これは、明治以降の歪んだ近代化路線や敗戦のショックによって破壊された、日本の在来宗教全体の衰弱しきった姿なのです。このような形からは現代人に何かを語りかける何ものもないでしょう。
 比喩的に言えば、理性的合理的功利的な世間の生き方に対して、それを更に包んでいるのが深みとしての宗教性です。理性を光とすれば、それは陰ですが、光のみあって陰のない世界は砂漠に広がる広漠たる大地でしかないということを、近代文明のさまざまな退廃は教えてくれているのではないでしょうか。
 宗教性や精神性を養うには、子供の時から、具体的に伝統的形態で、手を合わせるとか、礼拝するというような行や、大切なものや尊いものがあることが感覚的に伝えられていなければならないでしょう。これは合理性では捉えきれない歴史的感受性と言うべきものです。その感性は民族それぞれとしか言いようがありません。例えば、大きく繁った荘厳な古木、いわゆる「ご神木」を見た子供が「トトロの木だ」と言っているのを見たことがありますが、そのような共感は合理性を越えた歴史的なものとしか言いようがありません。イスラム教やキリスト教の人間が見たら、日本の神木もたぶんただの古びた木でしかないでしょう。日本人の場合、大きな自然に触れることは、人間を包む世界の大きさを教えてくれます。しかし、それ自体は宗教でも何でもありません。ただ、それは後に宗教性に目覚める土台になるものだと思います。その意味では、現代の人智の光の世界しか知らない子供達は、合理性の故に自分や他者の命を傷つけることを何とも思わなくなるでしょう。一方、台湾の大衆宗教はいまだそのような共感的感覚を子供達に伝える働きを失っていません。神社や寺院の様々な宗教的意匠は、物語の形で大切な命の尊厳の世界を伝える媒体になっているのです。
 近代性と合理性の明るい光の下で生きているはずの医師や工学博士や弁護士などのたくさんの知識人が中心になって、個人崇拝を宗教と信じ込んで、あの忌まわしい一連の事件で人々を殺傷するようになったのはなぜか、これは裁判などでは絶対に分からない、私たち現代の日本人の精神的衰弱への重大な警鐘です。勿論、合理主義自体は近代化と文明化に不可欠な思想ですが、ただそれだけで人間の精神的問いや民族性の問題のすべてが解決されるわけではありません。合理的であればあるだけ、人間存在の小ささに目ざめさせられると言ったパスカルの有名な「人間は考える葦である」ということばの意味をもう一度考えてみるべきではないのかと思います。宗教性の点でも、日本人は大衆宗教という方法論としての宗教性への入り口を、戦後は特に意識的に閉ざしてしまったのではないかと思われるのです。 
 
 さて、本題に戻って、大衆への宗教的媒体と同時に、台湾では純粋な宗教的世界を求める修行の場もしっかりと残されています。 
 そこで、次に取り上げたいのは、先に(2)としてあげた在来型の寺院仏教ですが、これは日本でいういわゆる仏教と一見すると同じですが、ただ、両国では内容は実は相当ちがいます。その違いは、かなり本質的で歴史的な問題を含んでいるので、実際には詳細な教理の検討と歴史的比較が必要ですが、ごく大まかに言えば、第一に、台湾の寺院仏教ではいわゆる上座部仏教や日本の平安時代までの仏教のように、厳しく戒律を守って出家者が修行し、悟りを開くことを目指しています。ですから、寺院は人里から離れた山などにあり、僧侶だけが修行をする道場になっています。出家者である僧侶は当然、家族を捨て、財産や地位も捨てなくてはなりませんし、肉食妻帯は勿論禁止です。教典にある戒律を正しく実行しなくてはなりませんし、出家と在家の別は非常に厳格で、出家者と在家者は、生活様式の点で全く違います。
 この点で、出家と在家の区別が日常生活においてはなくなり、僧侶も村落共同体や町衆の一部として生活するようになり、村の寺や町の寺として生活の場の一部になった日本の寺院仏教とはだいぶ違います。日本の仏教は鎌倉時代に民衆の仏教になり、生活の中の在家の仏教として独自に発展したのですが、例えば典型的には親鸞聖人に見られるような純粋な教学が同時に生まれていました。戒を捨て山岳仏教という伝統を捨てたところから、新しい広がりと教学的深化が遂げられたのです。ですから、両者の形態について単純な優劣は全く語りようがありません。
 一応、以下事実だけをあげていくと、台湾では出家を目指すのは、日本の多くの場合のように寺院の師弟だからではなく、在家の人の自発的意志によります。台湾では寺院や宗教施設が血縁関係で相続される習慣は一般的ではないらしいので、特に寺院仏教の場合代々の出家者が守っていくのです。出家者には、一般大衆は勿論、大きな会社をたたんで出家した人や、アメリカで博士号をとって帰国した工学博士や有名な政治家の師弟など、いろいろな階層の育ちも暮らしもさまざまだった人がいます。
 戦前の日本の大学には普通にあった仏教研究会や仏教青年会は、現在の日本では求道団体としては一部を除いてほぼ廃絶してしまい、知識人階層への伝統仏教の働きかけは道をほぼ閉ざされた形になっていますが、台湾ではほとんどの大学に「仏学社」や「禅学社」と呼ばれる求道団体としての仏教青年会があり、いろいろな研修会が盛んに行われていて学生達の伝統仏教に対する関心は衰えていません。血族中心で伝統を伝えようとしている日本の伝統仏教に比べると、絶えず新しい優れた人材が伝統仏教界にも入ってくる台湾の寺院仏教は、いまだカウンターカルチャーとしての宗教の役割を失っていないのです。
 第二の違いは、これは、大衆仏教の神社や寺院にもいえることですが、出家者と同時に寺院仏教に対して非常に高い敬意と関心が払われていることです。従って、有徳とみなされた僧侶の社会的地位はかなり高く、大統領と対等に対談できる有徳の僧も少なくありません。しかし、逆に言えば、宗教界の不祥事やスキャンダルに対しては非常に監視が厳しく、しばしば大きな問題としてとりあげられます。在来宗教のこれらの施設は、基本的には在家信者の寄付でまかなわれています。お賽銭というばかりではなく、いろいろなかたちでの寄付が自主的に行われています。従って、有名な僧侶が出た寺院は、またたくまに大寺院に発展して、社会的にも大きな影響力を与えるようになります。日本のように葬式や墓地が寺院や宗教施設の主な収入源であるのとは、信者との関係が、だいぶ違っています。また、有徳の僧侶にたいしては、社会的関心が持たれているので、定期的な説法の会座やテレビでの対談などがあり、新聞やニュースの話題になることが少なくありません。
 外側だけを見ると、これは、日本の場合の創価学会などを始めとする新興宗教が戦後急速に発展したのとよく似ています。しかし、台湾の場合、例えば代表例として仏光山をあげれば、南部にある寺院は巨大な阿弥陀像や大仏殿があって、公開されていたときは遊園地のような人混みで、日本の新興宗教の本山と似ていました。しかし、行は伝統的な念仏行や座禅などで、教祖が勝手に作ってしまったものとは違い教典に典拠がありますし、一方では、大蔵経を出版したり教典に関する講義録を次々に出したりして、いわゆる新興宗教的な「**に勝つ法」のような、功利性に訴えかける内容が主ではありません。その教学の歴史を否定したり、教典の一部だけを拡大解釈していく新興宗教とは違って、オーソドックスな伝統的教学の基礎をはっきり持っている点と、それをはずれてはいかに人気がある人物であろうと、伝統的寺院仏教からは駆逐される点が、新興宗教とは違います。
 そして、この宗教界への関心の高さがあるせいか、伝統宗教界の神様や仏様がしばしばテレビドラマの主人公にもなっています。鍾馗様、土地公、馬祖様など、日本で言えば天神様、お地蔵様、弁天様のような存在ですが、それらを主人公にしたゴールデンタイムのドラマは時代劇の一分野として台湾では定着しています。日本ではもはや考えられないことでしょう。宗教的存在を大人の見るドラマのテーマとするという発想自体、日本では失われてしまっているのです。
 第三に、古代から仏教が持っていた利他行の精神、つまりボランティアの実践精神を失っていない点です。現代の日本では既にほとんど消えてしまいましたが、かつて日本仏教の寺院とその信徒組織は地域の文化と技術、医療などに非常に大きな役割を果たしてきました。江戸時代はしばしば小学校代わりになり、地域の紛争の調停役やため池や用水などの大きな土木事業の勧進元になったりしていました。身近な地域に対して日常生活にも関わる中で、地域の寺院として法を説き教えを伝えていたのです。
 台湾の現代の寺院仏教には、まだ同じ利他行を大切にしながら修行を続ける伝統が残っています。「慈済」などの仏教ボランティア団体が多数組織され、人的にも物的にも、廃品回収やリサイクルなどから、大きな事故の救援、災害地への援助、病院や老人ホームの運営などまで、大きな影響力を持って活動を続けています。在家者が出家者に組織されながら、自主的に参加しているこれらの団体には、職業や年齢、性別を問わず、様々な人が関わっていますし、その活動資金の寄付も檀家とか葬式のためとかいう日本とは違って、喜捨としてごく日常的になされています。仏教系の団体が運営しているボランティア組織はキリスト教系のものより台湾では社会的に大きな役割を果たしているようです。この点でも、その時代その時代に、時代への関わりを失わない伝統仏教のたくましさが台湾では生き続けています。
 日本でも最近様々な形のボランティア団体が活躍するようになってきましたが、日本の伝統宗教界は敢えて表だっては関わろうとはしません。それは、それで一つの選択と見識なのかも知れませんが、ノイズとしての新興宗教が逆に目立ちすぎて本当のものを見えにくくしている今、特に大都会で日本社会を文字通り動かし支えている人々には、本来の宗教とは何なのか、メジャーの文化を包み込みそれを越えるカウンターカルチャーとして、何らかの現代化メッセージを伝えることが必要かも知れません。

 以上、宗教的形態を中心に見てきましたが、最後にまとめておきたいことは、両国で最も違うのは、宗教性に対する感覚ではないかということです。
 現代の日本人で高等教育を受けた階層の近代に対する一つの見方として、「戦前までは全部非合理で迷信的、戦後はアメリカ文明を学んで合理的で科学的になり迷信はない」という考え方がありますが、戦前と戦後で日本史を二つに分けてしまうのは全くの暴論です。戦前の非合理的な宗教政策は、それはあくまでも明治以後、いわゆる近代化によって江戸時代までとは全く違う形で宗教政策が行われた結果であって、戦前の体制はむしろ十九世紀後半まで国家宗教が個人を規制し、それからはずれるものは異端として厳しく処刑されたヨーロッパなどと同じで、それはたかだか大日本帝国時代の八十年あまりのことにすぎません。
 実は日本の伝統的な宗教形態は、戦前のそれとは全く違って、重層的であってしかも個人的でした。江戸時代まではせいぜい、家または村レベルで宗派や祭りを考えればよく、出家するにしても個人的な宗教の選択についてキリシタン以外何の規制もなかったのです。新興宗教に対する弾圧や教学に対する監視はあったにせよ、寺院は駆け込み寺などの例を見ても明らかなように、権力とは無関係な一種の治外の世界でした。そして、教科書などの記述とは違って、ヨーロッパではやっと今世紀になって獲得できた宗教的寛容と自由とは、鎌倉時代以後、数々の宗教的弾圧を越えて徐々につくられてきた日本の深い文化的精神的伝統だったのです。
 ところが、いわゆる近代の夜明けであったはずの明治維新以後から敗戦までは、重層的祭祀は混淆であるとして排斥され、代々自発的に寄進されてきた寺院領は国家財産として没収され、伝統的仏教界は国家に従属せざるをえなくなり、葬式など行事によって教団を維持する以外に生き残る道が閉ざされました。その上、宗教選択の自由は大きく制限されて、国家宗教の形で神道が全面的に強制され、天皇の肖像や神社を拝まなければ刑事罰の対象とされるようになり、天皇に関わるものはすべて神聖不可侵な対象とされました。一体何が変わってしまったのか?つまり宗教性は江戸時代までは功利性や合理性を求める経済や権力から離れた出世間の存在でしたが、近代以後は完全に日本国家の功利性と合理性に従属する習俗・習慣という次元での存在に俗化されてしまったのです。
 たとえて言えば、明治政府は、いわば自然への畏敬の感覚に過ぎない「トトロの木」を神聖不可侵にして犯すべからざるものだと口を大にして言い始め、しかも拝まないと刑法で処罰される存在にしたわけです。共感して初めて伝わる世界を、共感ではなく単なる言葉と法律で脅迫して教えたらどうなるか?
 敗戦後、そのような作られた伝統が否定される中で、神聖不可侵という言葉とそれを強制した権力ばかりではなく、一緒に世俗化させられてしまった「トトロの木」そのものへの共感も否定されることになりました。つまり生命に対する共感的世界やカウンターカルチャーとしての宗教そのものも「軍国主義・国家主義」と混淆して否定し、合理主義、民主化と称して理性の光のみの世界を造り出そうとしたのが戦後社会の五十年だったのです。その成果は、現在の伝統的宗教の全面的後退と、科学的であるはずの知識人による狂信的個人崇拝、**霊のたたりなど平安時代へ後退したかと思われるようないわゆる「宗教ブーム」、惨憺たるありさまの様々な宗教に関わる事件などが端的に示しているでしょう。実際、百物語として幽霊話を楽しんでいた江戸時代の知識人の方が私たちよりも遙かに合理的でした。幽霊や怨霊を笑える合理主義と理性を持っていたからです。平凡社の『東洋文庫』には、江戸時代に出たそのような随筆集が多数収録されていますから、是非ご覧ください。しかし、事故や不幸が自分や家族に続くとき、**のたたりだと言われて笑いとばせる現代の日本人は実は意外と多くないかも知れないのです。そして、**占いを否定できない現代人は、物忌みや方違えをして不幸を避けようとした平安貴族と実は何も変わらない程度の精神性しか持っていないのです。
 中国文化圏の道教と仏教の重層性を「混淆だ」と笑う日本人は、戦後五十年以上、神聖不可侵という世俗的な権力・「軍国主義・国家主義」と、共感的世界である「トトロの木」そのものや既に千五百年近い歴史がある日本仏教の深い世界とを、混淆してきた事実に全く気がついていません。天皇崇拝や国家主義と精神性や宗教性とが全く同じ次元の問題だという、いわゆる進歩的知識人の見識は、タイヤやエンジンの存在すら知らないで、目の前に見えているアクセルとハンドルだけで車が動いていると思っている運転手のようなものだと思います。私にはこの混淆は、決定的に現代日本人の精神性を破壊していると思われます。最も合理的かつ理性的な民主社会の中で、しかも科学教育がこれだけ行われているのに、なぜ星占いや**霊のような、二千年も前のアウグスチヌスや孟子によって否定された人間の浅はかな願望の形態が、大流行しているのか?精神的退行としかいえない状況が日本ではますます加速して、留まるところを知りません。そして、誰もそれを疑おうともしません。
 ただ勘違いしないでほしいのは、では戦前の体制は正しかったのかといえば、基本的に戦前の体制も今と同じ誤りをしていただけです。国家神道という形で、「トトロの木」は神聖不可侵であり犯すべからずというようなことを法律で規定して、しかも死刑まで含む刑罰で礼拝を強制した見識は、民主化時代の我々以上に、宗教的存在と世俗的権力とを等置しようとする恐るべき傲慢と独善としかいいようがありません。江戸時代の支配階級には、両者を一緒にする危険がよく分かっていました。歴史的には織田信長を最後まで苦しめ続けた石山本願寺一揆や島原の乱のキリシタンの例を挙げるまでもなく、両者を混淆することは人間の尊厳の最大の破壊になることを家康やそのブレーン達はよく知っていたのです。たった一人の門主や神父による、信心や信仰とは何の関係もない政治的判断ためにいったい何十万の門徒や信徒が命を失う羽目に陥ったか。
 しかし、明治体制下で、それを敢えて犯したのは、日本の夜明けの時代をもたらしたという維新の志士やそこに集まった明治政府の官僚達の精神的文化的レベルの低さを端的に象徴している事例だと思います。自分たちの育ってきた日本の伝統について、足軽クラスかまたは微禄の下級武士でしかなかった彼らには、十分な歴史的理解も文化的宗教的教養も幅広い知見もなかったためでしょう。この点だけでも、明治維新から明治時代の評価については、日本の民族と文化的伝統とに対する歴史的観点から、冷静に見つめ直す必要があると私は思います。理由は簡単です。たとえば、文庫でも読める伊藤整の『日本文壇史』などをお読みになればわかりますが、明治初期の文壇史は新聞、雑誌の創刊とそれに対する弾圧の繰返しでした。夜明けであるはずの時代に、逆に江戸時代にもしなかったような、言論への弾圧が公然としかも徹底的に行われているのです。しかも、攻撃を受けた問題の大部分は「夜明けをもたらした」支配階級の汚職や性的スキャンダルで、政策的論争がメインではありませんでした。はっきり言えば「品性下劣」としかいいようのない争いを繰り返していただけです。
 たとえば最近高く評価されて人気がある司馬遼太郎のような、維新と明治時代を肯定し大正以後を否定する見方では、維新の志士とその後継である明治政府には先見性や独創性があったということになるのですが、彼らに支配階級としての先見性と自覚があれば、例えば少なくとも藩ごとでばらばらだった状態を中央集権化して欧米列強の圧力を跳ね返すために、神社参拝を強要したり廃仏毀釈をしたり、ましてや参拝や拝礼に対し法律で罰則をもうけ、警察に監視させる必要はまったくありませんでした。
 ”IF・・・”をいくら言っても仕方がありませんが、天皇の肖像を元首への拝礼として拝ませる、国旗を国家統一の象徴として拝ませる、国歌を民族の理念として歌わせる、この三つで国家統合と民族的自覚は十分育てられたはずです。しかし、実際には、重視されたのは国旗や国歌ではなく、天皇家と国家神道と宗教的権威との統合でした。これは、近代君主としての近代天皇は世俗的権力の中心に位置する君主であるべきで、江戸時代のような宗教的文化的象徴ではないということが全く理解できていなかったことの現れです。近代性や近代国家とは何かが分かっていない指導者に基本的に近代化が指導できるわけがありません。しかし、文化的訓練と教養のない明治政府の元勲や官僚達には、主君も教祖も全く同じに見えたのでしょう。結局、両者は大日本帝国憲法の中では全く「混淆」されて、「天皇は神聖にして犯すべからず」という、今のイスラム原理主義の国の憲法が規定するような近代文明への完全否定が「近代国家」である大日本帝国の憲法に明記されたのです。明治の指導者は、一応、新国家をしばらくは欧米に征服されなかった業績は認められるでしょうが、一向一揆やイスラム原理主義と同じ体制をとって国家の近代化を阻害し、前回も書いたように、略奪経済型資本主義と人命軽視型軍事態勢を続けたため破滅するのは、時間の問題でした。1930年代以降の慢性的戦争状態を生み出したのは、つまり一向一揆のように人々を一言で死地に動員できる精神的体制があったからなのです。
 現在、戦後憲法が云々と言っている人々も、また憲法を守れと言っている人々も、日本人自身が輝かしい近代の歩みであると教えられている「大日本帝国憲法」が持っていた文明と人間の尊厳に対する重大な冒涜性と、その結果である現代社会の問題性がはたして分かっているのでしょうか?この問題の重大さが理解できない点だけでも、未来を語る資格は日本人には全くないと思います。世間と出世間、世俗と神聖の原理・原則すら受け入れられない民族が、文化や文明を語る資格があるとは全く思えないからです。キリスト教の宗教的権威しかなかった時代、理性の光はルネサンスを例に挙げるまでもなく、人間の解放でした。中国でも、殷の時代には生け贄や殉死と称して何万もの人間を殺していた宗教的権威から解放された周の時代、やがて春秋戦国の文化の花が開くことになります。この順序は決して逆ではありません。宗教性や精神性のない迷信だけの世界には、何の文明も生まれないのです。逆に、宗教性を失った文化がいつまでも生きられるのかどうか誰にもわかりません。
 台湾と日本とを比べたとき、台湾には未だ伝統的宗教の力と活力が生活の中に生きているのを見ることが出来ます。それに支えられる形で、経済や近代化の力強い歩みがあることも理解できます。大会社の社長でも人生の大事の前には財を捨てて出家する、そんな諦観が社会を力強く育てていくでしょう。しかし、日本ではもはや精神的宗教的感性の土壌すら、全土で砂漠化しつつあるとしか思えないのです。今、私たちは平安貴族と同じ平和と繁栄を誇っています。男性であれ女性であれ、桎梏であった家を離れ、源氏物語のような性的自由すら獲得しました。しかし、同時に死後の平安を祈って阿弥陀像の手に自分の手をくくりつけて死を待っていた貴族と同じ感覚を、私たちは生きています。彼らが死を厭うように私たちも死を厭って、それを見まいとし、それを何かのせいだと叫んでいます。私たちは大切なものが分からないので、何も捨てられないのです。永遠の生を求めるしかない生き方をしているのです。それは、生のみあって死を知らない生き様ですが、それと同じ生き方をしていた、今ではただの文字の記録でしかない跡形もなく滅んだ貴族社会とその文化の末路を私たちは忘れてはならないのです。
 しかし、一方でそれとは対極の文化を私たちは鎌倉時代から江戸時代まで育ててきました。武家の文化でもあり、禅や真宗の文化でもあります。また、恋や粋や義理に命を懸けた江戸の庶民の文化でもあります。それらはすべて真に大切なものがはっきりしているので、捨てることと終わることを知っていた文化なのです。事績が今に残る数々の武士の生き様、親鸞の語録である『歎異抄』や蓮如の『御一代記聞書』などの時代を超えた語りかけなど、平安時代の貴族的人間には感じられない魅力を、私たちは平家物語や太平記、鎌倉仏教の仏典、江戸時代の文学の中に感じることが出来るでしょう。
 視点を変える必要は、実は経済や社会の面ばかりではなく、中世・近世史と近代史自体の中にも存在しているでしょう。視点の転換が出来たとき、日本人にとっては新しい精神的エポックとしての「新世紀」の始まりは、もうすぐそこに来ているのかも知れません。

第十回終わり

 

首頁 ] 向上 ] 第一回 ] 第二回 ] 第三回 ] 第四回 ] 第五回 ] 第六回 ] 第七回 ] 第八回 ] 第九回 ] [ 第十回 ] 第十一回 ] 第十二回 ] 第十三回 ] 第十四回 ] 第十五回 ] 第十六回 ] 第十七回 ] 第十八回 ] 第十九回 ] 第二十回 ]