今回は 青年と教育をテーマにした第一回目として、子供の教育に関わる社会環境の違いを台日比較の中で探ります。

第六回 青年と教育


 今年の一月、インターネット版の朝日新聞に気になる記事が出ていました。それは、この二三年話題になっている学級崩壊の目が実はすでに幼児期から現われているのではないかという記事でした。学級崩壊に限らず、青少年問題は、日本が今抱える特有で困難な問題の一つであり、社会の根幹を脅かしかねない大きな問題ですが、実際には、大きな社会の動きとして取り組もうという動きはなく、いわば専門家任せ、行政任せの状態が続いています。
 原因については、いろいろなことが考えられるでしょうが、今の若者世代に共通する問題として、一種の「集団拒否」が姿を変え質を変えて、どんどん広がっているのではないかという気がします。私自身かつて二十代に高校教師として勤務していたとき、教師という集団の一員として、こんな生活をあと四十年以上もしなければならないのかと考えると、半ば絶望に似たやりきれなさを覚えたことがあります。仕事の内容というより、集団に属して同じことをずっと続けるというやりきれなさが、そんな気持ちにさせたのかもしれません。そんな感じが、幼児期の子供にまで広がったなどと言うつもりはありませんが、登校拒否や中途退学の形で広がっている集団拒否の根は、実は大人社会の中にあるのではないかという気がしてなりません。

 翻って台湾社会を見ると、日本で見られるような青少年の問題が同じように存在しているのに気がつきます。性犯罪がらみのものから暴力、怠学、刑事事件がらみのものまで日本の青少年と同じような問題が新聞やニュースを賑わせています。ただ、違うのは、一つは広がりの点です。日本のように学校全体の機能を停止させてしまうような校内暴力やいじめなどの事件が全国各地で同時多発的に起こり、しかもその状態が続くというようなことはなく、散発的で部分的な発生に止まっているようです。また、もう一つは、いわゆる登校拒否や中途退学のような集団拒否による問題はそれほど目立っていません。受験のストレスによる緊張や友達関係などで登校拒否をする場合は確かに少なくないようですが、日本のように、たぶん本人にもはっきりしない理由で拒否状態に陥る学生は多くはないと言えるでしょう。
 日本と台湾との青少年の問題を見たとき、両国には共通して、いわゆる豊かな社会に共通した同質の問題が存在しているようですが、日本ではますます深刻化して打開の糸口すら見いだせないでいるのに対して、台湾では一定のところで何とかくい止められていると思われます。実際、台湾でも日本と同じ状況が起こらないとも限りませんが、現在のところ、うまく激化の目を押さえているのは台湾で、全く押さえきれないのが日本ではないかと思います。
 
 その背景としては、台湾社会が血族の繋がりによる共同体的な繋がりを社会の構成原理として持ち続けているのに対して、日本社会が核家族化の形で、それらを拒否し分断化してきたことが考えられます。一族全部が子供の世代に対して働きかけているため、親だけが子供に一方的に関わることはなく、親とうまくいかないときは、親戚の誰かがうまく中に入ったりして、いわば「一族の子」として扱われ育てられるのが台湾の子供たちだとすると、幼児期から親子関係以外の人間関係に触れることが少なく、親の影響だけを受け続けている「孤立した子」が日本の子供たちではないかという気がします。台湾で生まれた私の子供を家内の兄弟たちやいとこたち、一族の一人一人が実の親以上に可愛がってくれます。今は居住地が離れているので、限られた形でしか行き来できませんが、住んでいる場所が近ければ、行き来はほとんど日常的とも言えるほどで、子供は一族で共同で育てるという感じに近くなるはずです。いわば親子関係・母子関係という孤立した関係におかれた日本の子供たちの関係性が非常に偏っているのに対して、台湾社会の場合は、幅の点で広がりがあり、質的にも様々な血族から影響を受けて育っていくように思われます。比喩的に言えば、日本の子供は「実験室無菌栽培」であるのに対して、台湾の子供は「路地育ち」なのです。自立性ということを考えたとき、どちらが本来の姿かかは、考えるまでもなく明らかでしょう。

 第二には、特に職業選択に対する幅と視野の広さです。先程述べた、一族の共同体的繋がりが生きている台湾では、一族の職業は様々で社会階層も多岐にわたる場合が少なくありません。医者もいれば、銀行員もいる、工場労働者もいる、露天商もいるというように、親戚のしている職種だけでも多種多様で、子供たちは直接に親しく、仕事についてイメージを持ちやすいのが台湾社会だと思われます。自営業者も多いので、働いている現場を見聞きしやすいこともあるかもしれません。一方、日本では、おそらく現在では仕事の選択について、いろいろな職種を親しく見る機会がほとんどない家庭が大多数ではないかと思われます。子供の仕事観に影響を与えるのは、親から与えられたイメージとテレビなどのマスコミの情報だけで、実際に新しい何かを選択したくても、情報の具体性が限られていて、仕事とは何かが若い世代に見えにくくなっているのがこの二十年ぐらいの日本の状況ではないかと思われます。従って、選択したくても様々な選択肢自体を若者が持ちにくく、また、マスコミなどに影響された固定した価値観に支配されて、選択する自由すら自分から放棄しているのが日本の多くの青年ではないかと思われます。
 職業は、社会に貢献し適正な収入を得るという基準で考えれば、本来は、実は、多種多様な選択ができ、また、自身の適性と関心によって新しく開拓していけるものではないかと思いますが、日本の場合、大多数の若者がいわばホワイトカラー的な仕事のみを仕事と考えるという異常な事態に陥っているように思われます。他の先進国でも、多かれ少なかれ青少年問題は共通に激化していると思われますが、日本のように、同質的事件が全国各地で同じように広がっていくのは、おそらく非常に特異な現象ではないかと思われます。これは、本来多様なはずの可能性がすでに小学校の進学段階から閉ざされたように若者に写っていることの反映ではないでしょうか。
 
 最後に、日本人の同一化思考とも呼べる価値観の単一性も大きな理由ではないかと思われます。台湾の場合、親は若者の職業に対して、固定した「**でなければならない」式の考えは持っていないようです。いわゆる人間として恥ずかしくない躾を別とすれば、親が子供に、何かを強制するようなことは庶民の場合、ほとんどないと言っていいと思います。子供がもし勉強が好きでなければ、勉強しろ勉強しろと責め立てたりはしないで、逆に、嫌いなら、そういう学歴を必要としないでできる仕事につけるように手に職を着けたり、自分で事業を始めればいいという視野を持っているようです。
 一例として、私の義姉の例を挙げれば、義姉には娘二人と息子が一人いますが、長男には跡継ぎとして立派な学歴をと希望していたようですが、本人は勉強が好きではなかったため、結局専門学校を卒業して勤めたらということになり、それ以上の進学を強制したりはしませんでした。また、長女の子は頭がいいので、家事もさせずにずっと勉強させ、塾にも通わせながら、大学まで進学させましたが、次女はそれほどではなかったので、勉強ではなく、家事を仕込み、また美人なのでダンスの専門学校へ通わせてインストラクターにならせました。どの子にも全く同じように「進学しなさい」と日本の親の場合なりがちですが、台湾の庶民の家庭では、そのような考え方は行なわれていません。また、逆に日本では「女が進学する必要はない」などと言われて、諦めさせられる場合もまだあるようですが、こちらでは、本人の特性が生かせるかどうかを、大切にしているようです。
 また、学歴社会で勝ち残った人でも、考え方の面で何かにとらわれたり、合わせたりすることはありません。例えば、こちらの大学生は、自分が日本語学科生でも、「やはり心理学を勉強したいので、卒業後はアメリカへ行きたい」などという卒業後の選択肢も幅が広く、日本とは違って、いろいろな可能性が出てくるのです。社会で生きる道については、本当に本人の責任であり自由であり、又可能性も残されているという面が、台湾の青少年の犯罪の激化を緩和していると思われます。
 日本の場合は、大都市なら小学校の進学時点で、他の地方でも高校進学までには、既にほぼ将来の方向も決められているように信じ込んでいるのが普通です。事実としては、たくさん選択の幅があるのに、価値観の中ではそれは全て捨象され、ただ一つしかないかのような錯覚に陥っているような気がします。結局、先ほどあげた、ホワイトカラー的仕事のみが仕事であるという見方に立てば、農業や自営業などに職業を変えることなどできないと、ならざるをえません。その上、進学先が決まった時点で、もはや変更の自由というか、社会的承認も得られなくなり、選べると自分が思う仕事自体が少なく、決められたルートからはずれるチャンスも限られています。例えば、農学部から経済学部に変わって、税理士になろうとしても、このような変則ルートでは、日本ではまず競争には勝てないでしょう。サラリーマンの場合なら尚更、単一の連続した履歴であることが要求されているように感じられます。例えば、小学校はアフリカのモザンビーク、中学校と高校はインドのデリー、大学は台湾の台湾大学で経営学を学んだというようなユニークな人材がいたとしても、日本のホワイトカラー社会では所を得られないのではないでしょうか?見方を変えれば、日本社会の方が親切にも若者の仕事をあらかじめ、子供の時から決めてあげているということになるのかもしれませんが、残りの四十年以上もの人生を既に道ばかりではなく歩き方まで決められているのはある意味では絶望的とも言えるほど、やりきれない気がします。
 
 要約して言えば、日本の青少年を取り巻く環境は、もともと本来その将来は未知数であるはずの若者に、最初から、いわば全員が同じ道を決められたように歩まなければならないと先輩の誰もが言っているようなものだと言えます。これが一体自由な民主社会の様態なのでしょうか?ただ、勘違いしてはいけないのは、両極端の独裁主義による社会統制のように、一定の支配階級が被支配階級に何かを強制するという意味での強制によって、このような現代の日本社会が生まれたのではないということです。このような「単一性社会」は、何よりまず、自分の子供に単一的価値観による選択を迫り、それ以外の生きる道を示そうとしない日本人自身の選択によって生まれてきたのです。
 「自由とわがままは違う」とか、「日本社会は自由になって、若者の道徳が無くなった」という言い方は、ずっと当たり前のように繰り返されてきましたが、こう言っている方自身、実は選択の余地としての自由を若者に与えていないことに全く気がついていないでしょう。私自身、高校での在職中は、服装検査や頭髪検査で、いわゆる普通と同じようにしろと生徒たちに言って、反抗する彼らと争う以外にありませんでした。単一性からはずれることの恐怖をいわば自分自身が感じていたので、生徒たちに他に何も言えなかったのかもしれません。また、いわゆる突っ張りルックをエスカレートさせれば、今度は逆の意味でもう一つの単一性を形成している力が彼らを引き入れてしまったかもしれません。いずれにしても、本人が気がつかない限り、実際には存在する選択の余地が、価値観の上ではほとんどないのです。
 その上、さらに異常なのは、「ホワイトカラー的である」というような、いわば人生の中ではほんの一時の仮の姿にすぎない職業人としての生き方が、人生の最終的目標のように子供時代から老後まで、全ての面に拡大されてしまっていることです。極端な言い方をすれば、「日本人は、サラリーマンになってサラリーマンの子供を育てるのが生きる目標だ」と言っているようにも見えるのです。果たして、人生とはこんな上っ面なものなのでしょうか?
 台湾社会から日本社会を見ると、「単一性信仰」という一種の新興宗教に犯されてしまった日本人に対する最後の抵抗を青少年が、自分自身も気がつかないでしているように感じます。そして、この新興宗教は、日本社会の本来の社会的活力をも奪いさっている気がしてなりません。

第六回終わり

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