今回は活力を取り戻すために何が必要なのかを、情報への対応の面から、2001年9月11日の米国でのテロ事件に対する両国の反応を取り上げて考えてみます。

 9月11日の夜、こちらのケーブル局が配信している衛星放送のNHKアジアのニュース10を見ようと私はテレビのチャンネルを変えました。すると、ニューヨークの貿易センタービルの一棟が火災を起こしている映像が映りました。キャスターは「航空機の事故によって、貿易センタービルで火災が発生した模様です」というようなナレーションを流していました。その数分後、黒い飛行機のような影が後ろ側のビルに近づいたと思うと、そのままビルの上部に突入し、後ろのビルの上部から大きな炎と煙が上がり、破片のようなものが飛び散りました。何が起こったのか、何かの冗談ではないだろうかと一瞬目を疑いましたが、間もなく私は「これは何かの攻撃ではないだろうか」と思いました。飛行機が続けて同じ地区のビルに突入する事故など起り得るはずがないと思ったからです。同じ映像をご覧になって、信じられないと思った皆さんも多かったことでしょう。その後も、キャスターは「後ろのビルでも別な事故が発生した模様です」というような慎重な言い方で、ニュースを流し続けていました。一方、その後見た台湾のニュースは、「恐怖主義攻撃美国」という見出しで、NHKが慎重に言葉を選んで報道していたニュースを、直ぐに「テロリストがアメリカを攻撃した」と断定して報道していました。中継映像はNHKアジアが流しているのと同じ映像を借りているのですが、ナレーションは全く違っていたのです。
 同じ映像情報を見ていても、両国のマスコミ関係者の事実認定は初期の段階でこれだけ違っていたわけです。おそらく台湾のマスコミは、アメリカのCNNやABCのニュースの報道に従って、「テロリストによる攻撃」と判断し、一方、NHKは自分の特派員の「事故」だという報告に従って「事故」という報道をしたのだろうと思いますが、その判断の背景には、その国が置かれた国際的な立場による、人の思考様式の違いが反映しているように思います。台湾の場合、事件の直後に、「今後、中華人民共和国によって、台湾に対して同じようなテロが行われる可能性がある」ことが報道されたり、また、米国関係の学校や大使館などの警備が強化されたことが報道され、このような突発的事態に対して、自分との関わりをいち早く見つけ、具体的に対処しようとする傾向がはっきりしていました。報道の内容も日本のように「イスラム原理主義勢力」というような抽象的な用語を用いたり、あるいは思想的背景を捉えようとするのではなく、行なった行為を捉えて「恐怖主義(テロリズム)」という用語でほぼ一貫して報道をしています。相手がどういう思想の持ち主かではなく、どういう行動を取るグループかをいち早く決めて、それに対する対応を考えたと言えるかもしれません。
 一方、NHKの報道に見られるように、日本の姿勢は非常に慎重でした。NHKは事件の翌日になってもはっきり「テロ行為」だと自分が断定するのを避けようとして、「アメリカ政府はテロ行為だと断定しました」というような、判断責任を相手に負わせる言い方をしていました。また、台湾のマスコミが用いた「貿易センタービルや国防省への航空機による攻撃」というような軍事的ニュアンスを伴う言い方は避けて、「飛行機が〜に衝突した」「〜にぶつかった」「〜に突入した」というような断定を避ける極めて間接的な表現を使っていました。日本政府の対応は、このような突発的事態に対するものとしては、今までになく速かったと思われますが、その一方で世論の動向を左右するマスコミの判断は、かなり曖昧であり、事件に対する対応に当惑していたと思われます。
 また、両国では国民のその後の反応、対応もかなり違っています。第一に、台湾では事件から今まで、アフガニスタンへのアメリカの攻撃に反対する論調はほとんど見られず、反対運動もほとんど見られません。テレビや新聞などのマスコミの命名も「反撲恐怖主義戦争」とか「獵殺恐怖主義」というような、テロリズムとの闘いであることを明示した見出しになっています。学生に聞いてみると、実際には戦争はしないほうがいいという意見も多いのですが、そうしたものをマスコミが大きく取り上げることはしていません。第二に、日本では盛んに議論されている報復攻撃の是非やアラブ世界とアメリカとの文明的対立という視点はマスコミの話題にはほとんど出ていません。日本ではS・ハンチントンの『文明の衝突』が以前に読まれていたせいか、文明間の対立という見方が判断の背景に入ってしまっていたようですが、台湾の場合は、相手が「テロ勢力」であるという行動に対する判断を優先させているようです。「テロ」は悪であるというはっきりした断定に報道の基準が置かれていると思われます。第三に、日本では報復への是非をめぐる議論の延長で、自衛隊を派遣するかどうか、派遣するならどう派遣するか、イスラム原理主義とは何か、アフガニスタンの現状など、アメリカの行動に同調しない形で情報を提供する連日の報道がありましたが、台湾はアメリカ軍がどういう作戦行動をとっているか、台湾に関わるテロ組織の動き、イスラム世界の動き、中華人民共和国が極東からの米軍の移動に伴う軍事的空白を利用して台湾への攻撃を企図していないかどうかというようなアメリカの行動を是認した上での話題が中心でした。国際的な立場の違いがここにも反映されています。
 ここから推測されるのは、日本ではまず、「自分の国は安全である→戦争は外である→外の戦争に平和な自分がどう関係するか?」というような傍観的思考が働いていたということです。直接自分が関わらないという余裕が傍観者的な「アラブ世界とアメリカ」「戦争の是非」「報復の是非」というような抽象的な議論の背景にあると思われます。しかし、傍観者である以上、それは議論のための議論であり、いくら議論してもそれだけでは結論は永久に出ないでしょう。自分が今後どういう方向に進むか、そしてその方向の中で今回の問題に関わる場が決まらない限り、問題に対してどう行動するか、どう関わるかはいつまでも決まらないからです。日本の場合は、最初の報道に見られたように、今の停滞しているが、しかし生活そのものが本質的に脅かされているわけではないという日本の状況が事件への当惑を起こさせ、積極的な関与を否定する方向へ国民を誘導していったように思われます。今回の事件に対して示したマスコミの初期の当惑こそ、「問題はおいておいて、今の平和な日本をおびやかすような問題には関わりたくない」という退嬰的で無気力な今の日本人の精神性をよく表わしていると思います。実際には、既に新しい国際的変動の時代が始まっており、いつ日本がそれに直面するか分からないのですが、日本人は50年前の米ソ対立の時代に形成された二分的で、安直に正否を判断できる時代の価値観を未だに、有効だと信じているようです。世界中にある慢性的あるいは潜在的紛争という現実を無視して、平和を訴えても全く意味はありません。世界中で顕在化しつつある、その対立の根は極めて深く複雑であり、今回のテロ事件も、そのような対立から始まっています。そして、それが今や近代文明そのものを破壞するかもしれない段階にきたのです。しかし、日本の論調からは、そのような問題の根本にふれる問いかけはなく、戦争の是非というような抽象的議論からは逆に「自分達は平和だ。だから、平和を乱してほしくない」という、表だって言っているわけではありませんが、後ろ向きの消極性がにじみだしているようです。

 ただ、日本の傍観的姿勢が評価できる一面もあります。今までほとんど無関心だったアフガニスタンやパキスタン、イスラム諸国の現状に対する報道が増えたお陰で、中近東の情勢が少し見えるようになったことです。事件やその後の軍事行動に対する連日の詳しい解説は、今回の問題に関係する勢力をすべて傍観的に眺め、一種のゲームに対するような態度で、推移を見守っています。正否を分けないその傍観的報道が、期せずして、今まで知らなかった地域に関心を持たせたのは、その日本の慎重な報道が評価されるべきところでしょう。アフガンは中国大陸を隔てた、いわば僻遠の地です。国民が「問題に関わりたくない」という態度でも、実際、何の知識もない日本人ができることは限られており、状況に大きな影響は与えないかもしれません。今回の事件をきっかけに、NGOや国連活動の中でアフガンで活動してきた日本人の紹介がされてきましたが、大多数の国民にとっては、「遠い世界」であることは否めません。評価できる面があるとはいえ、日本の対応が消極的で、他国追隨的であることは、否定できません。また、事件を自国を見直すきっかけとする意識も極端に低いようです。さらに疑問なのは、事件後既に二ヶ月近くになろうとしていますが、事件の報道がずっと同じ割合でトップに来ていることです。事件に関係してのニュース時間の延長も続いています。しかし、台湾のニュースでは、最近総選挙を控えていることもあって、既に二週間目ぐらいから、トップ扱いではなくなり特派員の詳しい報道もなくなり、文字放送で流れる短報がほとんどになりました。膠着した状態でいくらニュースを流してもほとんど意味はないと思われますが、日本では、事件はじめの消極性とは裏腹に、事細かに作戦の詳細を報道しており、そこに何の意味があるのか、かえって疑わしく感じられます。国民世論を今回の事件への関わりを受け入れる方向に向け変えようとしているためにニュースを流し続けているとも見えます。あるいは、国内の小泉改革への国民の支持率を下げるために、改革関連のニュースを見えなくさせているようにも見えます。国内に明確な方針がないにも関わらず、ニュース報道の比率だけが高いというのは、明らかに矛盾しています。日本のNHKニュースを見ている台湾の学生は、なぜずっと今回の事件だけをトップで取り上げているのか理解に苦しんでいました。
 それに対して台湾の対応は現実重視です。日本と同じように、アフガニスタンへの実質的関わりはほとんどありませんが、この問題がどのように今後自分と関わるかを捉える場合、非常にはっきりした方針を持っているように思われます。一例としては以下のような報道を挙げることができます。

   (中央社記者王應機紐約特稿) 美英兩國聯手對阿富汗神學士政權發動軍事攻撃的同一天,紐約郵報提醒美國應思考中共採迅速殘忍手段征服台灣的可能性。此一思維反映出,九一一恐怖分子攻撃紐約世貿大樓慘劇發生後,美國人得到一個基本教訓:世界上任何事情都可能發生。
  專欄作家魏爾 (George F. Will) 在郵報言論版刊出的一篇題名「台灣會是下一個目標?」的文章中警告,美國樂觀假設,中共進攻台灣沒有勝算,因為它既缺少渡海進攻所需的兩棲艦艇及運輸艦,它的空軍飛行員素質比不上台灣,戰鬥機的性能也比不上台灣空軍擁有的F−16及幻象2000。
  美國忽略的是,中共可利用突襲彌補假設的不足。它可能發動兩棲攻?,但真正的目的只是為了轉移台灣地面部隊對空軍基地之類主要進攻目標的注意力。如此中共才能採取空前殘忍的手段,放手使用戰術核子武器及化學武器。 『奇摩新聞 中央社2001/10/08』

 この記事では、ニューヨークポスト紙のコラムニストが、「現在、アメリカは中華人民共和国には台湾への上陸作戦能力はないと油断しているが、今回の事件によって、いかなる行為でも可能になってしまったために、今後、中華人民共和国が台湾に戦術核兵器や化学兵器を使用する可能性が生まれてきた」と指摘し、それを特派員が解説・報告しています。今回の事件の恐ろしさは、実はこういう拡散性にあることを日本のマスコミや識者は誰も指摘していません。つまり今回の事件は20世紀後半の社会がモラルとして形成してきた地球共同体的ヒューマニズムを真っ向から否定する側面を持って、今後の戦争を第一次第二次大戦的あるいはそれ以前の大量破壊、大量殺戮の時代に引き戻してしまうきっかけとなりかねないのです。こうした点に気がつく台湾の記者の鋭さは日本の新聞の社説にはほとんど感じられません。
 台湾の記者にはこのような視点が生まれたのに、どうして日本の記者は同じようにアメリカの新聞を見ていてもほとんどこうした視点に関心を持たなかったのか?やはりそれは、具体的な一人一人の「人」がおかれた場の違いと言わざるをえないでしょう。台湾(中華民国)は内戦に敗れた1949年以後、中華人民共和国(日本人が「中国」と言っている共産党政権)と軍事的緊張関係にあり、二十世紀の後半、国家が成立する基盤を「中華人民共和国による軍事的支配を受けない」ことにおいてきました。明治期の日本人国家が「欧米列強の軍事的支配を受けない」ことに国是をおき、近代化を図ったのと同じように、台湾もこの五十年あまりの間、国家の存立条件として、「中華人民共和国による軍事的支配を受けない」ことを大前提に経済的発展を目指してきたわけです。もちろん軍事的対立と言っても現在、交戦状態ではないので、台湾を旅行するときには、海外の旅行者がそのような軍事的緊張を感じることはないでしょうが、よく見れば、あちらこちらに軍事基地があり、兵役についた若者たちが警備兵として立っている姿をみることができます。緊張が高かった時代に造られた海岸沿いのトーチカの跡も、海岸の道をドライブすると、点在しています。まだ使われている沿岸監視所に立つ警備兵の姿も見かけられます。大陸に近い金門などの島嶼部では五十年前、実際に砲撃戦が行われていましたが、現在ではそのような直接的衝突はありません。しかし、「中華人民共和国による軍事的支配を受けない」ことは社会生活の前提として、既に日常化しているといっても過言ではありません。1995年、台湾の民主化運動を妨害するために、中華人民共和国は台湾海峡の公海上(国際公法が定める領海規定による。しかし、中華人民共和国は東シナ海の大陸棚すべてに領有権を一方的に主張しているので、台湾はもちろん沖縄・九州沿岸を含むすべての東シナ海は中華人民共和国の経済水域とみなされている)でミサイル演習を行ない、同時に大軍を動員して台湾への攻撃作戦を行なう構えを見せました。その動きに応じて、アメリカ軍の二つの空母艦隊が台湾近海へ展開し、人民解放軍の動きを牽制し緊張が高まりました。この事件があったとき、アメリカやカナダへ移民しようとする台湾人が増えましたし、ドルや円などの外貨を買って海外へ逃れようとする人も目立ちました。ただ、台湾の大多数の人々は、攻撃があったらあったときのことと割り切って、生活を続けていました。一旦ことがあれば、たちまち自分の日常が崩壊するかもしれないことを前提に、台湾の今日の繁栄は成り立っているわけです。目立って緊張しているわけではないが、いざというときを意識していると言えばいいのでしょうか。
 日本がある意味ではどのようにでも自分の方向を決められるため、逆に何も選択できないのに対して、台湾の場合は、「中華人民共和国」という大敵がつねに圧迫を与え、それへの対応を抜きに何かをなすことは事実上できない状態です。国民の意識の中にもそうした認識は、暗黙のうちに流れています。つまり、今が「平和」であったとしても、「中華人民共和国」という大敵の動きには敏感であらざるを得ないのです。確かに、日本でもよく報道されているように、台湾と大陸との経済交流は活発で、大陸への経済投資は急速に進んでいますが、同時に、中華人民共和国は台湾の対岸に約三百基の核彈頭も搭載できる新型中距離対地ミサイルを配備中であり、ロシアから新型戦闘機やミサイル駆逐艦を次々に購入し、空母機動部隊を整備中で、明らかに攻撃的軍備を強化しています。もう暫くすると人民解放軍は二つの空母機動部隊を東シナ海に展開するとみられ、海を越えて陸軍の作戦を支援できる状態になり、その第一の標的である台湾近海での軍事的緊張は高まっています(日本からの中華人民共和国への巨額のODAは大陸の沿岸部の道路網、鉄道網などの整備などにも使われています。これは台湾攻撃の時には軍需物資の補給網や軍事基地の連絡路として使われることになります)。こちらのニュース報道では、アメリカの幾つかの研究機関は今後2005年から2010年にかけて台湾海峡の軍事的緊張がますます高まり、人民解放軍による台湾本土攻撃・占領のシナリオが具体化する危険性が高まると予測しています。人民解放軍による台湾への軍事的侵攻の可能性を考えることなしに、台湾の国家としての将来像は描けません。日本は「平和を維持する」と考えればそれですむのですが、台湾は戦時を前提とした休戦状態としての現在や将来を考えるしかないわけです。そして、これと同じ様な潜在的脅威は世界の至る所にあり、「平和」の中で進む戦時状態という曖昧な状態を生きている国が世界には多数あることを抜きに、21世紀の地球社会を語ることはできません。
 こうした場の違いによって、日本人記者はテロ事件の拡散性の指摘は重要ではないと判断し、台湾人記者は自国に密接に関わる問題として今回の事件の拡散の危険性を訴えたと思われます。このことは情報の価値は、それ自体が決めるのでははなく、情報に関わる人間の主体にあることを教えています。「平和を守る」ことにはもっと積極的な意味があるはずです。その点で言えば、「平和」というような抽象的な場に身をおいている日本と日本人は、情報の判断の点で非常に危険な状態にあると思われます。それはまず、「平和」主義がただの傍観であることによって見える部分もありますが、日本の新聞がテロ事件の本当の問題性を正しく報道できなかったように、問題の軽重の判断を失わせてしまうことになりかねないからです。「平和」を重要と考えるならば、それを維持する条件が脅かされないように具体的な方策が立つはずですが、日本人の場合は、「戦争をしてはいけない」=「平和」に過ぎず、自分のおかれた現実にいろいろな意味で深刻な矛盾が生じています。「平和」を維持することは国家的戦略を放棄することではありません。「平和」にはもっと積極的な意味がいくらでもあります。まず、その第一は現段階での文明を維持、発展させ、決して破壊してはならないということです。過去には何回も文明の大破壊による社会の暗黒化がおこりました。ローマ帝国崩壊後の暗黒の西ヨーロッパでは、ローマ時代の技術や建築は「悪魔の技」と言われ、何のために水道橋やアーチがあったのかさえ理解できなくなっていました。この時期の技術面での退化は何世紀もの歴史に値しています。同様に騎馬民族の侵入を繰り返し受けて混乱した中国文明、イスラム教の侵略で破壊された印度や中央アジアの仏教文化、蒙古の侵略を受けて消え去った中央アジアや西アジアのイスラム文化には、その後の回復期には取り返せなかった様々な文物や技術が数多く存在していました。文明の中心地が暴力によって物的人的に破壊されることによってそれまで蓄積された知識や技術は、わずかの間にほとんど失われてしまいます。日本に伝わっている仏典や漢籍の中にも本国の印度や中国大陸では既に失われて久しいものがいくらでもあります。生物化学兵器テロや核兵器テロによって先進国の技術や文化が一挙に失われる最悪の事態は何としても避けなければならないでしょう。現在、先進国と発展途上国との間には非常に大きな溝があり、「大国エゴ」と言われる様々な問題を先進国は起こしていますが、だからといって、もし先進国の文明が大きな破壊を受ければどうなるか?結局、先進国に蓄積されている文化的技術的経済的富を失えば、文明の水準が何世紀分も後退し、人口だけが増えた他の地域の人間の世界はやがて生存を維持できなくなるだけのことです。農業が始まって約一万年の歴史の中で、同じ様な文明の破壊による文化的技術的喪失と人口の大規模な減少を人間のそれぞれの文明は絶えず経験してきました。そして、かつて大きな破壊を受けた地域が再び有為な文化圈として立ち上がることは非常に難しいことです。その意味では、日本で発展してきた文化も台湾で育ちつつある文化も、今までの歴史の中で、軍事的な大規模な破壊、略奪、暴行を一度も受けてはいません。非常に貴重な文化の連続的発展がこの地域では保存されているのです。そのことだけでも今後、直接の軍事的侵略を受けないための方策がいかに重要か、明確な目標が生まれるはずです。
 自分のいる場に根をおろすことなくして、情報の価値を決めることはできない、日本と台湾のテロ事件への対応の違いは、それを明らかに示しているのです。

第16回終わり