今回は、政府の経済運営方法から日本経済と台湾経済とを比較し、特色を考察してみます。
 鳴り物入りで始まった「経済改革会議」など、小渕内閣から始められた一連の審議会や施策ですが、一年近く経つとやはり、そのままになってしまうものがほとんどかという印象が消えません。答申が出されたといっても、ニュースで流れるのはまだいいほうで、大半は只の書類の山になってしまうのではないかという疑念が残ります。それ以上に疑わしく感じられるのは、ニュースで見る**省の事務室の乱雑さです。一国の指導部だといわれている省庁の事務室が中継される度に見える、積み上げられた古びた書類の山や乱雑に散らかった机の上を見て、あんな部屋でまともな仕事ができるのだろうかと思われたサラリーマンの方は少なくないかも知れません。が、危機感といっても、一国の首相が芸能番組の芸能人の発言に何か言うぐらいの時間の余裕があるのですから、首脳部の緊張感はたかが知れています。
 例えば、ニュースでは総額何兆円にも及ぶ天文学的数字の負債を抱えて事実上「倒産」したり「破産」していく銀行や保険会社が跡を絶ちませんが、それでも、それらがまだ他人事に思えるのは、皮肉な意味で逆に日本社会の層の厚さと余力を感じさせる出来事です。数字の大きさにはうんざりしますが、そのぐらいの損失が出ても数字の処理で簡単に処理できるのは、それだけ実力があり、資産が十分あるからなのです。たぶん、政府や会社の金庫に眠っている某国の公債や国債を担保に海外から資金を集めれば、実は不良債権を解決するぐらい何でもないとも言われているのです。本当の意味でこの余裕を大切にすれば、日本社会は世界有数の実力と人材を備えた近代資本主義の最先端を行く国として、いくらでもチャンスが生まれてくるのですが、指導者も国民もどこか逃げ腰な自己逃避の感じがするのは私だけでしょうか?
 しかし、今、投げ出してしまったり、自分の殼に籠ったりすれば、活力を失いつつある硬直化のツケはこんなものではすまなくなります。けれども、少しまじめに考えれば、日本は何と言っても世界一の単一性を誇る平等国家です。知識も経験も技術も、そして、それを担っている人材も非常に質が高くしかも均質です。この人材があり、その上不況と言っても、資産運用で頭を悩ませている人がいくらでもいて、高校生や中学生までPHSでみんなのんびり話していられるぐらい経済余力も十分な国なのですから、チャンスが作れないわけはありません。気が付くか、つかないか、基本的な問題はそこだけです。

 一方、今、台湾では来年の大統領選挙に向けた選挙の前哨戦が始まっているところです。今まで見てきたところでは、現職の李登輝総統は後継者として連戦副総統を推しているようで、後は副大統領候補を誰にするかというところかもしれません。他方、民進党側は内部での対立・抗争があるようで、だんだん組織力が衰えている感じがするのは否めません。党の候補として有力な若手を立てられるかどうかにも疑問が出てきます。しかし、誰が大統領になるにせよ、今の路線を大きく変えることはないという点は、言えるだろうと思います。今後の大陸との関係はいろいろな意味で微妙ですから、統一も独立もはっきりした表現では今言える状況ではないと思います。この6月、李総統は、『台湾の主張』と題して著書を出しましたが、その内容には賛否両論が台湾国内でも出ているようで、特にその外交・政治手腕への評価は何とも言えませんが、ともかく、経済運営の面では李総統麾下の政府スタッフは少ない人数でもかなり効率的で巧妙に運営されており、その何十倍もの人員を抱え、毎年何兆円単位で政策経費を出しながら一向に状態を改善させられない、どこかの国の官僚とは大違いで、その点だけでも、的確な判断力と決断力を備えた人材が配下に十分育っていることが分かります。台湾があのヘッジファンドに喰われなかった数少ないアジアの国家であることを忘れてはいけません。そして、昨年の経済混乱を切り抜けて、今や外貨準備や金保有量ではG7各国をも凌いでいるかも知れないのです。次期大統領が誰であれ、今育っている中堅の手堅い人材がこれからの台湾社会を安定させ、発展させていくだろうという展望はかなり説得力を持って言えると思います。
 
 台湾の選挙以上に問題になるのは、日本の東アジア情勢に関する対応が非常に遅れていることです。台湾を巡る国際環境も変化しつつあり、日本の役割もその中で台湾情勢とも複雑に関係しています。五年前の大陸によるミサイル演習事件の時、狭い台湾海峡に艦隊を入れたことすらあるアメリカの動きをよく見ていれば、今まで寄港したことのない日本の港へ艦船を入れたり、ガイドラインを執拗に持ちかけたのは、何を想定しているためか、自ずから明らかだろうと思います。アメリカ政界と言っても大統領の命令で全部が動いているのではありませんから、多様な動きの全てを見て考えないと、方向は見えてこないというのが、台湾の関係者の常識です。特に、大統領と議会とは全く政見が違う場合がしばしばあり、アジア政策もその一つです。英語の堪能な方は直接、最近アメリカ議会で審議されている東アジア関係の法案をWWWでお調べになれば、これらが何を意味するか、具にご覧になれるだろうと思います。(翻訳ソフトで訳せば簡単です!)日本のマスコミは、その点かなり手抜きで、漫然と大統領しか追いかけていない感じがしますし、議会の方は日本に直接関係した話題性のあるもののみを特立するので、議会関係者が何を考えているのか、たぶん何も捉えられていないと思います。東アジア関係なら、台湾に来るアメリカの要人に取材するだけでも随分考え方が分かるはずです。ひょっとしたら、日本に来る要人以上に数が多いかも知れませんし、ルートをつけるならむしろ、本国よりコンタクトしやすいでしょう。情報戦でも日本は取材源が偏っているのではないかと思われて仕方がありません。
 また、日本国内の対アジア感覚も時代の現実に合っていません。米ソが鋭く対立していた冷戦時代の感覚で、今のガイドラインなどは「自衛隊の海外派兵につながる・・・」と考えていらっしゃる方も少なくないと思いますが、近未来に一度東アジアで戦闘が始まってしまったとしたら、今度は日本はもはや中立ではいられません。なぜなら、東アジアではまだ冷戦は全く終わっていないのです。冷戦が終わったのは地球の反対側のヨーロッパだけで、アジアの冷戦は何も変わっていないのです。未だに資本主義を敵とする体制を持った国家が軍事力を持って存在しているのです。アメリカの動きがそれらの国に対して微妙なので、日本人は目がくらんでいるだけです。本質はしかし、何も変わっていないのです。
 その上に、派兵が侵略になるという、日本が加害者になるシナリオだけを考えている日本人が多いのは、徴兵制があり予備役まで入れれば、それぞれ何十万あるいは何百万という現役兵が居る、お隣の国々の現実を知らない時代錯誤の感覚ではないかと思います。戦前の日本人ならともかく、飽食時代の日本の若者や生活習慣病に苦しむ壮年の予備役兵からなる今の自衛隊が、お隣の非常に戦意の高い国々の軍隊と実際の戦闘になったら、もはや軍隊とはいえないようにならない保証はどこにもありません。最小限度まで徹底的に武装解除してきた戦後社会の現実を忘れて、戦前の軍事大国だった時代と同じ「侵略的戦力」を今も持っていると信じ込むのは、滑稽を通り越して、太陽が落ちてくると心配していたという中国の古典にある或る国の言い伝えを思わせます。若者の姿を見る限り、逆に攻め込まれても、はねかえす力すら期待できないというのが本当かも知れません。
 日本では、ヨーロッパ・アメリカが世界の中心だという見方があるために、ヨーロッパで米ソ対立が無くなったらアジアでももう対立は無くなったのだ、お隣の国はシルクロードの国で、故宮の国なのだという奇妙な逃避がまかり通っているのでしょうか。過剰に防衛的なるのも、かといって、現在を見ないで古典の世界や歴史の中に逃げ込むのも、国際感覚のなさ以外の何ものでもありません。ともかく、台湾から東アジア情勢を見る限り、大陸と交流はしつつも、第三警戒ぐらいの緊張は、いつも存在しているのです。そして、それが非常警戒に変わらないという保証は誰にも出来ませんし、その範囲が台湾本島だけに限定されるのかどうかも全くわかりません。そうなったとき、東京近辺も含めアメリカ軍基地は日本の全土に散らばっているのです。一部政党が言っていた沖縄「だけ」が戦火にまきこまれるかもしれないという、これまた虫のいい想定も、実は全くの妄想にすぎません。妄想の上に妄想を重ねた判断で、果たして国際的立場や国際貢献などがありえるのでしょうか?戦時と平和が同時進行しているのが、実は国際社会であって、親**派もそれに反対している人も、一方しか見ない点では何も違いがありません。こういう議論しか出てこない日本の学界も言論界も、発想が硬直化し単一思考に犯されているのです。蒙古軍の侵略を受けながら、「旧法・新法」の争いを繰り返していた宋の知識人達と何ら違わないかもしれません。
 
 先に述べた首相や首脳部の動きにしろ、一番身近なはずの東アジアの隣国に関わる国民の奇妙な感覚にしろ、この二十年ぐらいの間に日本人は現実と感覚、事実と認識とのずれがあまりにも酷くなりすぎてきた気がします。バーチャルリアリティーではなくて、自己妄想的現実とでも言えばいいのでしょうか。たとえば、人権も法律もそれを安定させる権力があるから保証されているのであって、それらが守るべきものだから保証されているという面ばかりではありません。その混沌としたバランス中に現実の社会は動いているのです。しかし、最近の日本人の感覚は後者に偏り過ぎている感じがします。一切の強権は悪だと見なしながら、自分の人権を保障しろと自分が否定している権力に要求するという、ひどい捻れが生まれているのに自分で気が付かないのです。自分の理想(妄想)がまずあって、それに合う現実だけを現実と見ていると言えばいいでしょうか。 

 経済面でもそれははっきりしています。今回のテーマである台日の経済比較ですが、まず、日本の現在の経済的実力はどのくらいなのでしょうか?おそらく経済官僚も政治家も、多くの経営者も実力を測る尺度をはっきりは示すことが出来ないと思われます。なぜか?理由は簡単です。八十年代以降、予算の分配や割り振りだけが政治的行政的方法であるとみる油断と怠慢が、経済的成功の中で固定化してしまったため、見通しを立て、大きく判断する能力を失ってしまったからです。また、それを許すぐらいに日本の経済力も大成功をおさめ成長してきました。そういう状況下では、社会の発展の方向をリードするのではなく、抑制・調整・分配が仕事なのですから、基本的には大局的な状況判断の尺度など必要ないですし、今後の日本全体の見通しに何ら主体的な関心を持つ必要もありません。自分のテリトリーだけを押さえていればいいのです。この二十年ほど、自分の狭い持ち分だけを見ていて全体的見通しを立てる気すらなかったので、今は立案能力もなく、海外からもかなり追求されてから、慌てて動き出したところなのです。
 いくら構造的な不況であっても、尺度があれば「五年前に比べて、現在は*%の成長分を確保しているので、潜在的成長余力は残っている」というような誰が見ても理解できる説明が可能ですし、説得力のある政策を出せないわけがありません。が、バブル経済以後、論理的な説明を今まで全く聞いたことがありません。小渕内閣の堺屋長官になってから、やっとまともに指標を直し始めたようなのです。かつてはGNPで説明して国民を納得させていましたが、今は何がどうなっているのか、まともな説明は消えて、部分的情報だけが流される結果になっています。これは経済の心理的側面を全く無視した政策で、現状も目標もはっきり示されず、ただ進めと言われているのと同じことで、国民に必要以上の心理的不安を与えている結果になっていると思われます。好況だった時代はこれでも問題ありませんが、持久戦とも言える状態の時に情報が消えてしまうのは、全線戦が崩壊していくような不安感を煽ることになります。
 一国のデータを握っている政治家と官僚が見通しを立てる気も判断力も今は持っていないのですから、いくら、多くの「警告の書」が出ようと、政治任せ、行政任せにしたら何も解決するわけがありません。
 勿論、専門的な話なのでという言い訳はできるのかもしれませんが、個人消費の動きだけでも一国の経済の息の根を止めてしまいかねないぐらいの大きさがある現在の日本国民の経済力を無視して、大もとの国民には一切方向を示さず、消費税をとにかく上げてみたり、減税を要求されれば減税をし、人口減少に苦しむ地方にはとにかく大量の公共投資をし、というように、言ってみれば、全く無責任で放漫な運営をしているのは、指導力を発揮すべきだという自己妄想にかられて、全くその自己妄想を守るためだけに、とにかく権限がふるえる部分だけで動いているとしか思えません。彼らに全体が指導できるほど今の日本経済は単純でも国内的でも脆弱でもないと思いますが、彼らが自分の妄想に従って「指導すべきである」という立場に合う政策だけを実行しているせいか、本当は放任すべきなのに統制を続けたり、規制すべき所を全く放任するという、特にバブル期以来の経済運営は非常にちぐはぐで、しかも、結局何を意図した政策なのか全く解りません。一例を挙げれば、公定歩合をゼロに近くして、一体金融政策といえるのでしょうか?全く通貨調節能力のない中央銀行など存在の意味もないのではありませんか?そして、今や、引退寸前だった人物に再登板を頼むほど、見通しを持てる人物が中央にいないのです。(それが分かったのは一つの進歩かもしれませんが、次の人材が果たしてどこにいるのでしょうか?)
 橋本内閣は「財政再建」と「行財政改革」、小渕内閣は「景気回復」と「住宅空間倍増」等という目標を出しましたが、一見して解るように、非常に消極的な方向性のない目標で、一方はとにかく削減する話、一方はとにかく増やす話というだけで、実は何の展望も見通しもないといってもいいでしょう。いったい、二十一世紀に向けて経済も含めたどんな立国を具体的にしていくのか、国民は宙に投げ出されているばかりです。

 一方、台湾の場合は、政治の動きは全く国民には見えてこないときがありますが、経済に関しては、毎月の経済指標を解りやすくまとめて報道し、貿易額の伸び率など幾つかの指標で、緑・黄・赤という傾向を示しています。事実に相応しているかどうかはいろいろな専門的評価があるでしょうが、この形は心理的に経済の全体的傾向について一般市民にも事業者にも解りやすい説明になっていると思います。勿論、黄のときは、何らかの対策が即応的に示されることがあり、情報として論理的に納得しやすいといえます。その証拠に、株価などを見ると民間の動きもかなりそれに敏感に反応しています。
 この点、日本の場合は、いろいろな指標が時期もバラバラに出て、しかも発表の主体までがバラバラで、よほど注意して聞かないと何が問題なのかよく分からず、専門家などはともかく、一般国民に対する説明方法としては最悪に近いと思われます。今回の不況は消費不況とも言われるように、国民経済の心理的悪化が一国の経済を衰退・収縮させているのですから、対策も今までのような国民経済を軽視した放漫政策では大きな効果は得られないでしょう。今回の総合対策で衰退・収縮はなんとか止まるとは思いますが、回復するかどうかは分かりません。というのは国民経済への心理的影響を政府も行政も考慮する方法を基本的に持っていないのです。
 しかも、今生じている失業問題などマイナス面の影響は経済の下げ止まりに見合うかどうかもわかりません。リストラの過度の進行は若い世代の社会意識や勤労意識におそらく重大な変化をもたらすでしょう。そして、今回発行された赤字国債の返済時期に日本の若年人口は今の半分以下にまでどんどん減少していくのです。今のような「経済は経済だけ」という短絡的な政治的行政的施策が続くと、社会構造全体に対して重大な損傷をあたえずにはおかないでしょう。活力が失われつつある日本社会には経済の落込み以上に重大な社会的歪みが生まれなければいいのですが。とにかく、情報の適切な開示とその方法の検討は、こんなところからも必要ではないでしょうか。

 また、政府の開発政策でも、この二十年ほど、日本は各省庁のために予算があらかじめ配分されているか、でなければ特定政治家による特定地域の振興策のために主な予算が使われて、国家的で総合的な重点目標は極端に言えばつけたりで、「ない」といっても過言ではありません。例えば、人口減少で苦しんでいる各地方の各県に、いろいろな名目で造られた「工業団地」や「干拓地」や「埋め立て地」が大半は今は雑草の栽培地に変わっているのを見ても、もともと造る時点から何の見通しも検討もなかったことは明らかです。そこでは、分配のための分配、権限をふるうための配分が行われてきただけです。そして、今やこの無方針、無計画が日本社会の活力を奪い去っているのは、誰にも否定できないでしょう。
 しかし、台湾の場合、見てきた限りでは、たとえば開発投資は「科学技術工業地区」のような方向性を持った重点目標に集中されて使われる傾向がはっきりしていて、いろいろ問題はあるにせよ、展望と方向性をはっきり持った政策として評価できます。今、コンピュータ産業の世界的中心地に成長できたのも、十年以前からのこうした重点政策の結実です。勿論、国内のハイテク産業を支えるためのソフト面、ハード面での支援も、たとえばQCの導入推進などのように同時に行われています。新産業を育てるには何が必要かを総合的に判断した上で、いろいろな施策がかなり体系的に実施されているのです。その一方で、農業など軽視されがちな分野に対しても、高度な農業知識と経営知識を持った中心農家を育成するなど、経済単位として自立できるような施策が行われています。さらに、折に触れて「アジア流通センター構想」とか「高度科学技術立国」のような次の重点政策目標がはっきり示されるので、次のステップに大まかな心理的整理ができ、発展の傾向を国民がつかみやすい面もあるかも知れません。また、「縦断新幹線計画」のような国民に夢と利便性を与えると同時に、経済運営上も大きな効果が期待できる政策も時期を選んでタイムリーに出ます。とにかく、台湾の政策は、明確な目的と方向性を持つ点で日本の政策の出し方とは対照的な感じがします。
 日本のように、全ての分野に機械的な配分が行われ、はっきりした中心がなく、一度策定した計画を社会状況が変わっても機械的に実行し続けているのは、果たして政策といえるのでしょうか。例えば、今進められている全国新幹線計画や高速道路計画のように全部の地域が同じ交通路で覆われなくてはならないという、子供がシュミレーションゲームで街を造っているような感覚では、経済の中心地の住民には夢も便利さもあったものではありませんし、赤字線の補填のために幹線の料金がどんどん上がり、結局、今後の経済活動を圧迫するという恐るべき事態が進行しかねません。
 
 他方、日本の場合は、強みとして、政府による各種の統制が行き届いているので、予算の使い方から、物価の上昇の抑制や大型倒産による取り付け騒ぎの防止まで、よく管理されて、だいたい何があっても処理の流れがきまっており、不正や混乱は最低限に抑えられています。皮肉に言えば、利権に与れる産業や業者や個人まですでに固定化していて、新規参入による混乱はめったにありません。その意味では、安定していて安心できるのですが、その安定や安心は、無料ではありません。そのためにいったい国と地方合わせてどのくらいの官僚や公務員を雇っているのか、実は誰にもわかりません。そして、彼らの転職先まで「**事業団」のような公営企業を税金で無数に創ったりして、保証しているのです。安定の代価が高いのか安いのかは、国民が決めるべきかも知れません。しかし、見方を変えると、この組織が柔軟性を取り戻せば、これだけ強力な運営体系はないかもしれません。犯罪率の低さ、公害の防止、大企業と中小企業とからなる柔軟な産業構造などを支えてきたのは、官僚組織の適切な対応が大きかったはずです。いずれにしても、小さい政府に改革するか、硬直化に対する根本的な活性化策を立てるか、決断が必要なのは今でしょう。
 一方、台湾では確かに日本に比べれば小さい政府のため統制的側面が弱く、貧富の差が大きくて社会的経済余力も十分とは言えないので、例えば、料理酒の値段が三倍に上がるという報道が出ると、たちまち買い占め騒ぎが起こったりしますし、地方の農協や信用組合では不祥事などからしばしば取り付け騒ぎが起こったりしますが、かといって、それに社会全体が影響され混乱するほど弱い経済規模ではありません。個々の問題は、原則としては自己責任で対処し、政府は大きな目標だけを示して実行し、細部は最低限の統制にとどめるというのが台湾式の経済運営ではないかと思われます。小さい政府で安定度では多少劣るが、絶えず新規参入が行われて活力が十分に保証されている方が成長を続けられるという典型的な例ではないかと思われます。しかも、日本と同じように戦後は戦災の廃墟から出発し(太平洋戦争では台湾の兵士達も日本人として日本人と一緒に連合軍と戦ったのです。大戦末期、アメリカの空母機動部隊からは連日のように空襲を受け多くの台湾の町が廃墟になりました)、軍事的には大陸と対決しながら、国際的には外交関係を持てない国がほとんどになってしまったという、二重、三重の障碍を克服して今の実力を培ったのですから、好条件があったら、今以上にすばらしい国になることは確かです。

 しかし、いずれにしても、同じアジアの国の近代化といっても、台湾は例えばQCのように、日本から学べるところだけをとって、後は基本的には独自の路線を貫いてきたと言えると思います。政府の大きさ一つを取ってみても、また、経済政策や運営にしても、両国は全く対照的で、共通点はほとんどありません。同じアジアだから、アジアに対しては日本の政治的行政的手法が正しいというような画一的で思い上がった日本の官僚や学者の考え方には何の根拠も無いことが分かります。台湾を見るとき、これだけ不利な環境で、これだけの発展を遂げた国家は世界広しといえども他にはないと言っても過言ではありません。その成功体験は日本以上に大きなヒントを持っていないと誰が言えるでしょうか?日本の発展は好条件の偶然によるといえないこともないのです。その意味で、日本人は逆に自分たちの独自性の様相と意味をもう一度見直し、硬直した単一性思考を改める時期ではないかと思われます。
 しかも、今までのように政府や行政にケチを付けても何も変わりません。この国民にしてこの政府ありで、政府の硬直化は実は国民一人一人の硬直化から生まれているのです。一体、赤字にしかならないのに新幹線を要求しているのは誰か?高速道路を要求しているのは誰か?一事が万事この調子で、単一思考で自分の首を絞めているのは、地域崩壊に苦しむ住民自身でもあります。まだ国立大学が自分の県にあるうちに、知恵を委託研究のような形で借りながら、自分の故郷の本当の将来像を自分自身が持つべきでしょう。その土地に住まないとわからないことはいくらでもあるのです。自分が踏みとどまらないで誰が自分の故郷を守るのか?視野をアジアに広げて、地域の特性を生かした計画を立てないかぎり、それこそ全国に画一的な雑草栽培地や無人道路、幽霊リゾートなどが生まれるばかりで、何も解決しないのです。北海道や日本海側なら対岸の国々との交流は死命を制する問題になりますし、中四国・九州の各県は大平洋や東シナ海を広く視野に入れて立地を考えなければ生き残れないでしょう。
 最後に、手に入れた李総統の著書『台湾の主張』(日本語版)から一節を引用して終わりにしたいと思います。

 どのような社会も、活力の源は多様性と包容力である。アメリカが何度も落ち込みながらも回復する力を持っているのは、この二つを兼ね備え、しかも維持する努力をおこたらないからだ。そしてまた、台湾が近年急速に発展できたのも、多様性を生かしうる包容力のある社会づくりを目指したからだと思う。
 ところが、最近の日本は、マスコミ報道をみても、打ち出される政策を検討しても、一つの考え方に凝り固まっているとしか思えない。産業政策も柔軟性に欠け、多様性が見られない。(中略)
 本来、日本には非常な多様性と深みが備わっているはずである。それが発揮されなくなったのは、多様性の意味や深みの意味がつかめなくなっているからだろう。そしてまた、既成の権益が多様性と深みが発揮される回路を塞いでしまっているからに違いない。

  李登輝『台湾の主張』(PHP研究所)P147-148

第八回おわり

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