台湾社会の一つの現実として、各種の種族的グループの社会的存在があります。それらの種族的グループは単純に人種的種族とは呼べないグループであり、台湾という一つの歴史的社会集団が形成されていく過程で持たれてきた社会的多様性の共存の現実です。最も最近の大きな種族的グループの対立は「外省人対本省人」というグループの発生であり、これは1945年以降、大日本帝国の滅亡後、台湾が中華民国に復帰したとき中国大陸から移ってきた人々と、元から台湾に居た人びとの間で生まれた、大きな種族的グループの対立です。1949年、中華民国政府が大陸での共産党との戦闘に敗れ、台湾へ移ってから、この対立は激化し、228事件に代表される主導権闘争が起り、人口の約10%程度の少数派の外省人による多数派の本省人支配という体制がその後、50年近く続きました。この事実一つとっても「同じ中国人」という言い方が事実ではないことがはっきりします。228事件は、例えば旧大日本帝国時代の「治安維持法」関連の事件のような思想を理由とした同一集団による同一集団内の「異分子」への弾圧ではなく、「外省人対本省人」という出自を理由とした外省人による本省人への種族的弾圧だったからです。日本で言えば、例えば、明治時代に薩摩・長州人政府が、会津藩出身者を会津藩出身者であるという理由で虐殺するという事件があったとすれば、228事件と同じ性質の事件だと言えますが、幸い明治時代にそうした虐殺は起こりませんでした。出自を問題にした虐殺が広範囲で行なわれていれば、近代日本の出発はありえなかったかもしれません。台湾の228事件も、日本統治時代に育った知識人階級に主要な虐殺の的を絞っていた点で、無制限の虐殺ではなく、一定の歯止めがかかっていたとは言えます。
なぜ、紛争で出自を問題にすることが、深い傷を社会に残すかと言えば、それは出自を否定された側は存在を許されなくなり、それだけ大きな暴力が長期間その地域に威をふるうことになるからです。社会には、多種多様な集団が存在していますが、出自を問題にし始めると、そうした多様性は認められなくなります。ある村で、**家の人間だけが正しいとなったら、同じ村に住む残りの家族は全て否定されることになるのと同じです。現代でも例えば、旧ユーゴスラビア地域で90年代から今に至るまで続いている紛争や再び激化したパレスチナ紛争も、相互の出自を問題とした紛争であり、こうした争いの傷を癒やすには相当な時間がかかることでしょう。そして、冷戦終了後、世界各地でこうした出自を問題とした種族間の争いはますます深刻化しています。
出自を問題とするところには、現実には違う種族の人々と鄰居しているにもかかわらず、そうした地縁ではなく、一種の幻想に過ぎない血縁を重視するという、現実から乖離した思想と、それによって同じ集団の中での地域的多様性を圧殺するという非常に大きな問題があります。私の家内は「台湾人」、私は「日本人」ですが、私達二人から生まれた子供は「台湾・日本人」で、血縁で言えばどちらの集団でもないということにります。出自を問題にすることによって、社会に生きている多様な人の存在が否定されることなるのです。歴史を遡っていけば、人の交流があったところでは、こうしたいわゆる「混血」はどの集団でも必ず行なわれてきたことであり、血縁の純粋さといっても、それは自分に都合のよい基準をあてはめた比較相対の問題であることになります。日本の歴史も多くの海外からの移住者があった奈良時代以前まで遡れば、各地域で「日本人」という血縁をほとんど問題にできなくなるのは明らかです。また、現代日本の場合、日本人の最大の誤解の一つは「日本国は単一民族による国家だ」という言い方がそれにあたります。問題を明治時代以降に限っても、実際には、明治時代以来、日本には海外から多くの移住者があり、それを受け入れる中で、明治以降の近代社会が形成されてきたにもかかわらず、そうした歴史的現実は「日本国は単一民族による国家だ」という言い方の中では、まったく無視されています。神戸や長崎に残る洋館、神戸や横浜の中華街は、そうした時代の象徴的な名残りです。明治期の海外との交流の一端は、志賀直哉のような小説家の作品にも出ています。彼の『自轉車』という作品には、志賀直哉の少年時代の自転車の想い出が書かれていますが、その中に多くの海外の商館が立ち並んで多数の外国人が住んでいた当時の横浜が出ています。また、彼の小説『大津順吉』には、海外からの移住者を父に、日本人を母に持つ女性が前半のヒロインとして出てきます。彼の時代、志賀直哉自身は華族とは言えませんでしたが、友人には華族階級の人物が多く、そうした人々と海外からの移住者との交流はその他、いくつかの作品によく取り上げられています(ただし、欧米人だけが取り上げられている点は、大きな問題ですが、これについては別に取り上げてみることにし、今回は取り上げません)。彼の時代に限らず、現在まで、日本には現実として、多種多様な海外からの移住者が次々に新しく来て、住んでいます。そうした地縁を共にする海外からの移住者も含めて、近代以降の「日本」という社会は発展を遂げ、まとまりを保ってきたのです。海外からの移住者は、現在の外国人犯罪組織のように、その土地の災厄となる場合もあれば、民族料理や音楽など文化面で豊かな交流を生み出す場合もあり、受け入れる側の準備によって、どちらにも左右される存在です。災いにするか、幸いにするかは受け入れる側の主体性に関わっていると言えます。
台湾の場合も、常に海外からの移住者を受け入れてきた点では、全く違いはありません。話しを元にもどしますが、台湾での「外省人」「本省人」が一つの均質な集団なのかというと、これも、そうではありません。まず、「外省人」と台湾で言われている人々は、広大な中国大陸の各地から共産党政権に逐われて「中華民国」の集団として台湾に逃れてきた来た人々で、言語的歴史的に大陸各省の文化を持っている様々な人々です。東西南北の大陸各省から来た、こうした人々の話す言葉を聞いていると、決して日本で言われている「中国語(北京語)」ではありません。それぞれ各省の方言しか話せない高齢者も多く、こうした外省人の人々のことばは、「中国語(北京語)」としては理解できないものが少なくありません。ビンナン語、客家語などと同じように、お互いにほとんど通じない各地方の方言なのです。大陸出身者は、また、各地方の習俗を台湾へ持ち込みました。例えば、現在、台湾にある多種多様な中華料理はこうした大陸出身の人々によって、台湾で独自の歩みを始めた各省の郷土料理です。
一方、「本省人」と言われる人々の来歴も複雑です。大きく分けるとまず、「漢族対先住民」という対立があります。歴史的には16世紀から17世紀にかけて、大陸南岸の各地から台湾へ移住した各省の男性と、その当時台湾にいた先住民の女性との混血によって生まれた子孫が台湾での「漢族」の始まりだと言われています。16世紀から17世紀には台湾はまた、スペイン、オランダによる植民地支配を受けていますから、台湾の人々の中にはその時代のスペイン人、オランダ人との混血による影響も残っています。「漢族」の人々はまた出身地によってそれぞれの集団があり、大きく分けると「ビンナン語系(福建省からの南岸地域)」の人々と、「客家語系(南岸各地)」の人々、その他さらに「潮州系(広東省)」などの人々に分かれています。そうした人々と、今度は平地・山地の各先住民の人々の集団が、モザイク上に台湾各地に居住して、ある時は闘争し、ある時は協力しながら台湾の開拓を進めてきたのが、日清戦争で旧大日本帝国の植民地支配を受けるまでの台湾の社会集団の状態だったと言われています。清朝時代の台湾は、こうしたビンナン語、客家語、広東系の言語、先住民の各言語を話す各集団が各地に分立し、互いに言語がほとんど通じない状態で、清朝の記録には反乱続きで、疫病が猖獗する「難治の地」として記され、一部の都市周辺を除けば、実効的支配がほとんどできない状態だったと考えられています。旧大日本帝国の時代にも、最初の約二十年間は反乱状態で、日本軍の戦病死者は日清戦争のそれをはるかに上回る犧牲を出し、「統治できない」という議論が出ていました。それ以後の日本人による統治は、児玉源太郎などによる鉄道、道路、水道、電気などの社会資本整備、警察による法治、日本語を共通語として教育する公学校などの施策により、それまでモザイク上に分立していた本省人の集団を、結果として、大日本帝国下での「台湾人」としてまとめる働きをはたし、現在の「台湾人」という社会集団の基礎ができたと考えられます。(ただし、植民地支配の苛烈さは、霧社事件などの記録をみても明らかで、植民地支配自体を肯定できるものではありません。)
台湾の種族的社会集団を図式化すると、
「外省人(大陸各省の出身者)」<=>「本省人【台湾に移住し先住民と混血した漢族系の各集団(ビンナン系<=>客家系<=>潮州系)<=>先住民系の各集団】」というようになり、人種的なグループ的対立をはらんだ多様な歴史的社会的な種族的集団によって構成されている非常に複雑な社会集団をなしています。こうした多様性は、清朝時代には、単なる他集団との闘争に終止し、安定した統一的集団には発展できませんでしたが、旧大日本帝国と旧国民党政府の支配下の元で、一つの多様性を保った統一的集団に統合され、現在の台湾の発展はその時代に基礎が形成されたと言えるでしょう。台湾の発展史を見ると、多様性を保ちながら統一されてきたという、力動的な社会の動きをたどることができます。台湾社会の活力を支える一種の緊張感として、こうした多様な社会的歴史的集団の相互関係が作用している例は、様々なところで見られます。端的な例は、台湾での郷土料理の多様性でしょう。国民党政府と共に持ち込まれた大陸各省の料理に加え、台湾のそれぞれの地域に、それぞれの出身によって保たれてきた様々な料理があります。夜市などで見られる様々な食べ物は、各地域で工夫されてきた郷土料理に端を発しています。また、台湾の主食にも、米食、ビーフン類、麪類、粉食類など様々なバリエーションがあり、日本のように、米食だけが主食という感覚はありません。また、政党支持でも北部では比較的国民党支持者が多いのに対し、中南部は民進党支持者が多いというような違いも見られます。また、同都市の中でも地区によって政党の支持基盤が違うという状態になっています。社会の中に、多様なグループが共存していて、一種の緊張感を持ちながら全体としては、統一的な共存をしている台湾の現在の状態は、まだ郷土色を大切にしていた時期の日本とよく似ています。江戸時代以降、江戸や大坂が文化の中心になりえた背景の一つには、各地の出身者が大都市へ自分の郷土の特色ある物産や文化を持ち込み多様な文化の競争の中から新しい都市文化が育っていったという、同一社会内での社会的文化的多様性が保たれていたという点を認めることができます。地方から出てきた人達がそれまでの都市の支配層との葛藤をとおして支配層を交代させ、その中から都市の文化を育てていったという、同じ循環は、ごく最近まで日本の大都市では普通に見られたことです。支配層が絶えず交代し、常に新しいものに挑戦していく環境が、各都市が生きていた時代には、日本のどこでもごく普通に見られたと思われます。そして、こうした統一された状態での多様性の共存という状態は、人類史上の多民族帝国の時代には、普通に、見られたものです。多民族国家と言われる中国文明の絶頂期といえる唐代には、中国文明は周囲の各民族の手本であり、多くの留学生や交易商人の往来で、各国の文化が入り込み、それがまた新しい都市の活力になって、人類史上まれにみる豊かで安定した文化圈を作り上げました。唐朝の宮廷には、多くの外国人が官吏として登用されていましたし、当時の大学と言える仏教寺院等にも多くの外国人が迎えられて、仏教文化の面でも最盛期をもたらしていました。経済面、軍事面でも圧倒的な優位に立っていたことは言うまでもありません。こうした多様な人材を世界各国から集めて繁栄する世界帝国は、古代ローマ帝国やイスラム帝国でも同様であり、また、第二次世界大戦後のアメリカの方法とも言えます。
日本の場合にもそうした多様性の確保が機能していた時代を見出すことができます。急速な近代化に適応した明治時代の日本は、同じ民族とはいえ文化的歴史的背景を異にする種族的集団といえる各地方の県人・旧藩士などが同じ様な文化的社会的多様性をもたらしたことに支えられていたという見方ができます。同じ外圧、同じ海外文化の圧倒的優位に対しても、教科書に書いてある内容とは違って、反応は全く違っていました。欧米文化の模倣で文明化を図ろうとした「鹿鳴館」のような対応をする旧薩長藩士のような支配階級に対して、自由民権を称える板垣退助のような旧土佐藩士が現れたりしているのです。また、同じ西洋文化の受容と言っても、漱石のようにほとんど留学先の人間とはつき合わなかったにもかかわらず、英語との葛藤をとおして近代日本語の基礎を作った人や、鴎外のようにドイツの社交界で浮き名を流し、帰国後は文学者であると同時に官僚として生きた人もあり、また、新渡戸稲造のようにキリスト教の影響を受けた実業家となった人もいるわけで、その受容は実に様々でした。そして、またその西欧文明への対応は、現在のように観念上の憧れや反発ではなく、個々人の具体的行動として個々別々に現れていたことに注目すべきでしょう。文化の受容は人の行動をとおして社会的な動きに具体的になるような、ダイナミックな側面を持っていたのです。産業面でも、教科書に書かれているように、税金を投入して官僚が産業を運営する「冨岡製糸工場」や「北海道開拓使」のような現在の公共事業のようなやりかたばかりではありませんでした。1890年(明治23年)に国産織機を開発した豊田左吉(後のTOYOTA)や1887年(明治20年)に国産オルガンを開発した山葉寅楠(後のヤマハ)のような、政府権力とはほとんど無関係に現在の日本の主力企業になる産業をゼロから出発させた個人企業家が各地に輩出していました。また、教科書には全く書かれませんが、同じ時期、アメリカ大陸やアジア各地へ移民として出かけていった無数の無名の人々の存在も忘れてはなりません。文字通り徒手空拳、自分の身一つで未知の土地での生活に賭けた庶民も数知れずいたのです。水商売のために売られていった女性達も含め、圧倒的に不利な条件の中、海外へ出ていった多くの庶民に、何の保証もなかったのは言うまでもありません。しかし、海外との交流は庶民においても、そうした移民という形で非常に具体的でした。同じ「圧倒的な西欧文明」という現実を目にしても、対応の仕方は、それぞれ全く違っていたのが明治時代だったと言えます。それぞれが自分の選択をし、競争していた時代が日本にもあったのです。「他と同じ行動を模倣しない」というこうした多様な反応ができた背景には、明らかに、江戸時代までに培われた郷土色が個人の行動をそれぞれ変えさせていたという面を見て取ることもできるでしょう。現在、社会的経済的文化的衰退に直面している日本に欠けているものの一つは、こうした「他と同じ行動を模倣しない」という点だと思われます。全国一律の学習指導要領に唯々諾々と従っているような学校の在り方に問題意識を持つような人がたくさん出てくれば、教育にも自然と違う方向性が見えてくるはずです。また、自分の故郷が滅びそうなら守れる人は自分しかいないのです。故郷はあくまでその人の故郷であり、万人の故郷ではありません。自分が育てられた土地を守れるのはその土地の人だけです。もちろんそこには新しく来る外来の人を迎えたり、知恵のある人を迎えて新しい可能性に賭けるという選択肢もあります。あるいは、有力議員の力で税金を投入して貰うという選択肢もあります。今までと同じことをずっと続けるという選択肢もあります。「社会的経済的文化的衰退」という現実に対しても、やり方はいくらでも考え出せます。とにかく他と同じ反応を繰り返すということさえしなければ、必ず、道は開けるはずです。無数の試行錯誤の中から、次の時代を作り出せるかどうか、それを支えているのは、個々人の多様性を生かしている歴史的社会的な背景です。
多様な文化が同居することによって得られる文化的昇華の一例として近代日本語をあげることができるでしょう。現在、共通語として使われている日本語は、明治初期に江戸時代に江戸の山の手で使われていたことばに、各地の方言を加えて成立した人工的な言語だったと考えられています。江戸の街のことば自体が、江戸時代に各藩から来た地方出身者の共通語として使われるために、江戸の周辺地域の言語とはずいぶん違った発展を遂げていました。一番よくわかるのは、江戸の北部や東部の周辺地域では普通に使われている「〜さ行く」のような言い方が江戸では消えて「〜へ・に行く」という日本の西部で使われている言い方に変わっていることなどでしょう。そうした言葉を土台に、近代の日本語は、様々なスタイルの摸索の中で、現在のような書き言葉、話し言葉のスタイルに変身してきました。日本の近代文学が、京都や大阪ではなく、東京で生まれた背景には、多様な新参者が集まって、さらに、そこに海外の文化が流れ込んで混沌としていた時代に、それを表わす新しい言葉を欲していた東京という街の雰囲気が関わっていたと言えるでしょう。そうした時代の代表者の一人として漱石があります。漱石が近代文学の文豪として高く評価されるのは、漱石の書いた日本語が近代日本語の形式として最も広く受け入れられたという面があるでしょう。同時代の島崎藤村の日本語が、今では古めかしい感じの言い方を多々残しているのに対して、漱石の日本語は100年近く経った今でも、そうした感じを起こさせない不思議な力を持っています。また、そうした漱石の影響の元で育った芥川龍之介の日本語も同じでしょう。未だに文庫本で読まれているこうした作家の日本語には、時代の移ろいを感じさせない生命があります。
二人の作家の中には、江戸時代的な古い日本を引き継いだ面と、当時としては最も近代的な教育を受けた面との、相矛盾する二つの文化の葛藤が感じられるといえるかもしれません。そうした葛藤は、既に、現代の日本では不快なもの、あってはならないものとして、表に出せないものになっています。作品の中で当時としては最も近代的な女性を描いていた漱石の作品に対して、例えば、現代の研究者が、現代のアメリカのフェミニズムの立場から「男尊女卑」という評価をするのが新しい研究であるかのように言われるのです。「男尊女卑」という誰でも知っている評価からは何も新しいものは感じられませんし、何かを生み出す力は感じられませんが、漱石の作品は、読めば読むほど人を惹き付けるのです。近代という葛藤状態をそのまま反映している漱石の中にはそうした力があるのです。「男尊女卑」ということばで、そうしたものを割り切って、よく知っている評価に変えることが、現代の力を失わせていると言えるでしょう。
多様であること、統制がとれていないこと、各人が各人でばらばらであること、何が正しいのか分からないこと、矛盾していること、割り切れないこと等々には、実は長い苦労の中での大きな力と価値があるのです。一年で解決しなくてはいけない短い苦労の問題なら、単一である、統制がとれている、全体が協力している、正と邪がはっきりしている、合理的である、明快であることは、確かに大きな力になるかも知れません。しかし、バブル後の十年以上、そうしてきた結果、日本はますます泥沼にはまりこんでいます。新しい時代を開くには、おそらく、そうした成功の哲学がかえって傷を深めるのです。敢て失敗の哲学、挫折の哲学を選ぶことで、もともと多様性の中から生まれて来た日本と台湾の文化は、そうした混沌の中でこそ本来の力を発揮するようになると言えるでしょう。 |