衆生への結縁・救済、広汎な世間への流通・布教のための迹門であって、自家の神本仏迹説こそ「深秘ノ義」であり、いわゆる本門であって、「深甚ノ重位ハ真実ヲ秘ス」るものだと言うのである(顕露顕以仏為本。浅略流通為結縁。隠幽密以神為元。深甚重位秘真実)。 神仏関係において神をこのように位置づける兼倶の神観念を、ここで見ておくことにしよう。「名法要集」に、「吾ガ神道ハ、万物ニ在リテ一物ニ留ラズ。所謂風波、雲霧、動静、進退、昼夜、隠顕、冷寒、温熱、善悪ノ報、邪正ノ差、統ベテ吾ガ神明ノ所為ニ非ズトイフコト莫キ者也。故ニ天地ノ心モ神也。諸仏ノ心モ是レ神也。鬼畜ノ心モ是レ神也。草木ノ心モ是レ神也。何ニ況ンヤ人倫ニ於イテヲ哉」(吾神道者。在万物不留一物。所謂風波。雲霧。動静。進退。昼夜。隠顕。冷寒。温熱。善悪之報。邪正之差。統而莫非吾神明之所為者也。故天地之心。神也。諸仏心。是神也。何況。於人倫哉)とあるように、万物がその中に神霊を含蔵し、自然界と人間界とにわたる諸現象の一切が神の「所為」であり発現であり、価値観の基準も神の定立によるのであり、諸仏の心も神意に包摂されるとする。したがって、この神道説においては、仏教のように凡夫と聖者とを分かって凡から聖への「成仏」を言う必要がなく、人倫(人間)は神霊を含蔵するゆえにそのまま神であるから、「成神」の観念は成立する根拠がないのである。このような神観念に立って、兼倶は「神道ノ二字ノ義」を説明する。「神トハ、天地万物ノ霊宗也。故ニ陰陽不測ト謂フ。道トハ、一切万行ノ起源也。故ニ道ハ常ノ道ニ非ズト謂フ。惣ジテ器界・生界、有心・無心、有気・無気、吾ガ神道ニ非ズトイフコトナシ。故ニ頌ニ曰ハク、神トハ万物ノ心ニシテ、道トハ万行ノ源ナリ。三界ノ有無情ハ、畢竟唯神道ノミ」(神者。天地万物之霊宗也。故謂@陰陽不測。道者。一切万物之起源也。故謂A道非常道。惣而器界生界。有心無心。有気無気。莫非吾神道。故頌日。神者万物心。道万行源。三界有無情。畢竟唯神道)。 上の『名法要集』からの引用文中、@が『易経』(繋辞伝上)の「陰陽不測之謂神」(『易経』下 全釈漢文大系一○)に基づき、Aが『老子』(第一章)の「道可道非常道」(岩波文庫『老子』)に基づくものであることは一目瞭然である。また、兼倶は、自家の神道の名称の一つ「元本宗源ノ神道」の「元」の説明にも「元トハ陰陽不測ノ元元ヲ明カス」(元者。明陰陽不測之元元)と記し、「易経」の同じ一節を引用している(6)。さらに、これらの場合に限らず、「名法要集」を一覧するとき、そこには仏教・儒教・道教等の経典からの頻繁かつ広範囲に亘る引用・援用の例が目立つており、この論書の展開する神道論が、その内容と形式との両面において、外来の教法の複合・混淆によって構成されていることは、歴然たる事実なのである。 それにもかかわらず、兼倶は、自家の神道について、「大織冠ノ仰セ」として、「吾ガ唯一神道ハ、天地ヲ以テ書籍ト為シ、日月ヲ以テ証明ト為ス」(「大織冠仰云。吾唯一神道者。以天地為書籍。以日月為証明」と言明し、経典(書籍)も教理(証明)も元来不要である「純一無雑ノ密意」としての神道を標榜したのである。 そもそも天地自然の現象を書物と見立ててそこに真理を読み取り、日月星辰の運行を仰いでそこに教理の顕現を見るというのは、理論的自覚以前すなわち「神道以前」の段階である。兼倶のめざした究極の神道が、このような性格のものであるということは、彼が神道以前への復古を志向していたことを示すものではあるまいか。彼は、自家の神道につい |