る吉田神道における神仏関係は、この分水嶺を越えた所に位置していると言えよう。(まとめ

(二) 吉田神道(唯一神道)

 度会神道の論書「宝基本記」にその萌芽を見せていた反本地垂迹説は、吉田兼倶(一四三五〜一五一一)の著わした「唯一神道名法要集」(兼倶より一七代前の遠祖卜部兼延の著作に仮託されている)に至ると、「神を以て本地と為し、仏を以て垂迹と為す」との明確な断言によって示されるようになる(5)

 神仏関係を神本仏迹の観点から説明する思想は、兼倶に初めて見られるのではなく、元弘二(一三三二)年、卜部氏(吉田氏の元の姓)出身の天台僧慈遍(生没年不詳、吉田系図では『徒然草』の作者兼好の兄)の書いた『旧事本紀玄義』(『続々群書類従』第一「神祇部」)に、早くも「如来ハ既ニ皇天ノ垂跡為リ」(巻第一)「神宣西天ノ仏ヲ指シテ以テ応迹ト為ス」(巻第五)と見えていたのであった。これよりもさらに早く、同じく卜部家の兼方(生没年不詳、鎌倉中期の人、懐賢ともいう)の編集に成る『釈日本紀』(『新訂増補国史大系』第八巻)にも、既に「大日本国トハ。真言教ノ大日ノ本国ノ心ナリト云々」(巻五述義一 神代上)と記されている。『釈日本紀』は、鎌倉時代後期(文永・建治頃、一二六四〜一二七七)に、兼方の父兼文(生没年不詳、鎌倉中期の人)が一条実経等の貴族たちに対して行なった『日本書紀』の講義の筆記を中心にまとめたものであるが、その講筵に列した貴族たちの関心の的が神代紀であったという事実は注目に値する。しかも、その講書は、それまで朝廷で継続的に行なわれてきた恒例の行事としての講書が平安時代中期で中絶していたのを復活させたものであったという事情も、この時期に日本の古典と伝統への関心が復興したことを示すものとして、見逃し得ないであろう。

 このような気運が前項で述べた度会神遠の形成と密接不可分であったことは言うまでもなく、さらにこれを承けて、吉田神道の理論が展開するのである。したがって、吉田神道は、このような時代思潮の中で、吉田(卜部)家において祖先以来代々つちかってきた家学の伝統の上に、兼倶が独自の創意を加えて組織した神道であった。それは、卜部の家業を大成したものであるゆえに卜部神道とも言われるが、兼倶自身は、自家の神道こそ、「吾国開闢以来」純一無雑の神道として唯一のものであるとの自負をこめて、「唯一神道」「元本宗源ノ神道」と称したのである。

 吉田神道の理論体系の集成である「唯一神道名法要集」(「中世神道論」日本思想大系一九)は、この神道が依って以て「本拠」とする書籍、いわば仏教における所依の経典の如きものとして、「三部ノ本書」と「三部ノ神経」とを挙げる。前者は、「先代旧事本紀、古事記、日本書紀」であり、後者は、「天元神変神妙経、地元神通神妙経、人元神力神妙経」である。前者によって顕露教を立て、後者によって隠幽教を説くとしている。

 顕露・隠幽の別について、『名法要集』は、「顕密ノニ義トハ、一ニハ顕露ノ顕、仏ヲ以テ本地ト為シ、神ヲ以テ垂迹ト為ス。一ニハ隠幽ノ密、神ヲ以テ本地ト為シ、仏ヲ以テ垂迹ト為ス」(顕密二義者。一顕露之顕。以仏為本地。以神為垂迹。一隠幽之密。以神為本地。以仏為垂迹)と述べて、本地垂迹説に二種の別を立てる。これは、法華教学に言う本迹二門・顕密二道の判釈を踏襲した論法とも解されるが、さらに、兼倶は、従来の(吉田神道以前の)神道説で説かれた仏本神迹の考え方は「浅略ノ一義」であり、仏教語で言えば、

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