ことを示す。 「氤氳気象之中」とは、『易経』(繋辞伝下)にも「天地絪縕して、万物化醇す。男女精を搆(あわ)せて、万物化生す」(天地絪縕、万物化醇。男女搆精、万物化生)とある(「全釈漢文大系」一〇)ように、天地・男女の間にみなぎる盛んな気(陰陽二気)が交じり合って万物を化生する根源的エネルギーの中に「道」のはたらきを見るということである。 Aは『列子』(天瑞篇第二章)の「太易は、未だ気を見ざるなり。太初は、気の始めなり。太始は、形の始めなり。太素は、質の始めなり。気形質具はって未だ相離れず、故に渾淪と日ふ。渾淪は、万物相渾淪して、未だ相離れざるを言ふなり」(太易者、未見気也。太初者、気之始也。太始者、形之始也。太素者、質之始也。気形質具而未相離、故日渾淪。渾淪者、言万物相渾淪、而未相離也)とある一節(「新釈漢文大系」二二)である。ここに言う「渾淪」は「渾沌」「混沌」と同義であり、一切万物が渾然一体のままで、個物に分化する以前の始源の状態を意味している。『列子』はこの後に直ちに続けて「之を視れども見えず、之を聴けども聞えず、之に循へども得ず。故に易と日ふなり」(視之不見、聴之不聞、循之不得,故曰易也)と述べ、万物生成の始源たる「易」の説明としているが、これは上述の『老子』の「道」についてもそのままあてはまる。 このようにして、度会神道では、道家思想における「道」の観念を援用して「大元神」たる国常立神を説明するのであって、神を仏・菩薩が応現した垂迹神と見る本地垂迹説を採用しないのが、この神道論の特色の第一である(3)。 第二の特色は、神仏峻別思想である。仏・菩薩と神祇とを本地・垂迹の関係において同体視することなく、神と仏とは本来異なるものとして峻別するのが度会神道の立場である(4)。 この立場は、「神道五部書」の一書「宝基本記」の「惣而(おほかた)神代ニハ。人心聖ニシテ常ナリ。直ニシテ正ナリキ。地神ノ末、天下四国ノ人夫等(をむたから)。其ノ心神(こころ)黒(きたな)クシテ。有無ノ異名ヲ分チシヨリ。心走リ使ハシテ。安キ時有ルコト無シ。心蔵(ほくら)傷レテ。神(たましひ)散去(うかれぬ)。神散(たましひうかれぬ)レバ身喪ブ。(中略)茲ニ因り皇天ニ代リ奉リテ。西天ノ真人苦心(ねんごろのこころ)ヲ以て誨メ喩シ。教ヘテ善ヲ修セシメ,器ニ随ツテ法ヲ授ケテヨリ以来。太神本居ニ帰リ。託宣ヲ止メ給ヘリ」(惣而神代仁者。人心聖而常也。直而正也。地神之末。天下四国人夫等。其心神黒焉。分有無之異名。心走使。無有安時。心蔵傷。而神散去。神散則身喪。(中略)因茲奉代皇天。西天真人以苦心誨喩。教令修善。随器授法以来。太神帰本居。止託宣給倍利)という条に明らかに読みとれる。ここでは、日本の神が「皇天」と呼ばれ、「西天真人」つまり釈迦(仏)と区別されているのである、「皇天」は「西天真人」たる仏の垂迹ではなく、「西天真人」は神たる「皇天」の本地でもなくて、両者はそれぞれの時代に相応する人間の救済者として別個の存在なのである。 これについて、久保田収は、「神の背後に仏の存在をみてゐた」平安時代以来の本地垂迹説にとって代わって、逆に「仏の背後に神の権威をみとめてゐる」点で、「明かに反本地垂迹思想の萌芽である」(「中世神道の研究」第一章四)と説明した。つまり、「宝基本記」の説くような神仏関係は、本地垂迹説が反転されて反本地垂迹説へと移行する過程を反映するものであり、神道思想史上の分水嶺をなすものである。反本地垂迹説を基本的立場とす |