て、それが「神明ノ直伝」であり「純一無雑」に徹するものであるから、「異邦ノ教法」たる「儒・釈・道ノ三教」は、「要ムベカラズ」と言うのである。 しかし、上述のように、彼の論書の枠組は「異邦ノ教法」の複合によって成っているのであるから、彼の神道論においては、述作者の標榜した理念と現実態とは乖離していることにならないか。(まとめ) 終章 根葉花実論 兼倶は、自家の神道説について、「純一無雑」に徹することを理念としてめざしつつも、現実にそれは「複雑多岐」に亘る構成となった。この理念と現実との乖離の問題を、彼はどのように調和させようとしたか。 兼倶は元来外来思想の排斥を主張したのではなく、『名法要集』にも明記する通り、「唯一ノ潤色ノ為、神道ノ光華ノ為ニ、広ク三教ノ才学ヲ存シ、専ラ吾が道ノ淵源ヲ極メバ、亦何ノ妨有ラン哉」(為唯一之潤色。為神道之光華。広存三教之才学。専極吾道之淵源者。亦有何妨哉)との立場をとっていたのである。彼は、唯一神道に潤いと色つやを与え、輝かしさとはなばなしさを添えるために、「異邦ノ教法」は有用であり実効があると考えていた。それ無くしては、神道は、活力が衰えて変化に乏しく、光輝は翳って魅力を失なうと言うのである。彼は外来思想に対して、排外的ではなく、拝外的でもなく、いわば主体的であった。それゆえに彼は、異邦の三教を頑迷固陋に排斥することなく、寛容に受容したのである。問題は、外来の「三教ノ才学」を駆使し利用して「吾が道ノ淵源ヲ極ム」ることにあったから、外来思想の採用は神道の純粋性をそこなうこととはならなかった。 さらに、兼倶の「異邦ノ教法」に対する基本的態度を示すとともに、彼の神道論の性格をも端的に表わしているのが、「上宮太子ノ密奏」に仮託して記された次の一節である。「吾ガ日本ハ種子ヲ生ジ、震旦ハ枝葉ニ現ハシ、天竺ハ花実ヲ開ク。故ニ仏教八万法ノ花実タリ。儒教ハ万法ノ枝葉タリ。神道ハ万法ノ根本タリ。彼ノニ教ハ皆是レ神道ノ分化也。枝葉・花実ヲ以テ其ノ根源ヲ顕ハス。花落チテ根ニ帰ルガ故ニ、今此ノ仏法東漸ス。吾ガ国ノ、三国ノ根本タルコトヲ明カサンガ為ニ也。尓リシ自リ以来、仏法此ニ流布ス」(吾日本生種子。震旦現枝葉。天竺開花実。故仏教者。為万法之花実。儒教者。為万法之枝葉。神道者。為万法之根本。彼二教者。皆是神道之分化也。以枝葉花実。顕其根源。花落帰根故。今此仏法東漸。吾国。為明三国之根本也。自尓以来。仏法流布于此矣)。 日本(神道)を種子あるいは根本とし、中国(儒教)を枝葉とし、天竺(仏教)を花実とするというこの「根葉花実論」は、すでに慈遍の『旧事本紀玄義』(巻第五)にも「ソモソモ和国ハ三界ノ根(中略)日本ハ則チ種子芽ノ如シ(中略)唐ハ枝葉ヲ掌り梵ハ果実ヲ得」(『続々群書類従』第一「神祇部」)と見えていた。兼倶はこれを承けていると見られるが、この日本中心の立場から、彼が日本を異国に優越する神国と見なし、排外的な国粋思想の殼の内に閉じこもり、それによって神道の純粋性を固守せんと意欲していたとするならば、それは彼の真意を理解しないものであろう。彼の真の意図は、日本の土壌に生い立ち、ここに深く根をおろした神道という樹木をして、枝葉を広く周囲に繁茂させ、豊かに花実(果実)を結ばせることにあった。 |