この両宮・両部不二の論は、これまでにもしばしば引用した『麗気記』の成立とほぼ同じ時期(鎌倉時代後期)に、やはり真言系の僧侶によって著わされたものと考えられる両部神道の論書『中臣祓訓解』(『中世神道論』日本思想大系一九)に、「日輪ハ則チ天照皇大月輪ハ則チ豊受皇大神。両部不二ナリ」という形をとって表われ、また、度会神道(伊勢神道)の「五部書」中の一書『御鎮座伝記』(『新訂増補国史大系』第七巻)には、「日天ハ則チ東南二座ス。月天ハ則チ西北方ニ座シ給フ。凡ソ伊勢二所両宮八日月ノ表ハルル所ニシテ。諸神星位(かたえのかみはほしをつかさとる)」というふうに示されている。

 ただし、『麗気記』の「五什鈴河山田原豊受皇太神鎮座次第」が、「両宮両部ハ不二ナリ」の後を、「是レ両部ハ元祖ニシテ。仏法ノ本源也」と結ぶのに反して、『御鎮座伝記』は、「故に両宮ハ。天神地祇ノ大宗ニシテ。君臣上下ノ元祖也」と締め括る。このように、両部神道は、伊勢神宮の二神について両宮不二を主張する点では、度会神道と共通であるが、その際にどこまでも密教的立場を離れることがない点では、仏教徒の提唱した神道論としての性格を失うことがなかった。

 両部神道は、日本神話に登場する神々を、真言密教の両界曼荼羅の枠の中に配当することによって、神々にそれぞれの位置を与えたといえよう。曼荼羅という形式の中に日本神話という内容を嵌入するに当たって、両部神道が採用した神仏関係説明のための理論が、本地垂迹説であった。(まとめ)

〔この項で引用したいくつかの論書の中に、神名の表記が「皇大神」または「皇太神」のように不統一が見られたが、それは原文のままとし、あえて統一しなかった。〕

 

第三節 反本地垂迹説に基づく神道論

 前節で述べた仏家の神道論提唱に触発され、また新仏教の神祇観(神祇不拝)との対抗から、やがて神道家の側にも独自な神道理論が自覚されてくる。その代表が度会(わたらい)神道と吉田神道である。

 神道家による神道理論の形成を促す要因は、先に見たような国内における新・旧仏教界の新しい思想動向に求められるが、さらにもう一つの重要な動因として、国外から加えられた強大な打撃が考えられる。それは言うまでもなく元の襲来(文永一一〈一二七四〉年、弘安四〈一二八一〉年)である。元寇に見舞われた日本人が、その刺激から民族意識を昂揚させ、さらに国家意識を神国思想として自覚したのは当然であった。

 神道家の手に成るこの時期の神道説の特色を見る場合に、上述の神国思想の影響は見逃し得ない。それは、神仏関係を判然と峻別して、仏教からの神道の自立を計ろうとしたことに明瞭に表われている。神仏を習合させるのでなく、神仏を峻別し、さらに、従来の本地垂迹説を反転させて、本地が神であり、その垂迹が仏である、とする「反本地垂迹説」に則って神仏関係を規定しようとする神道論が成立する。

 このような性格をもつ神道論のもう一つの特色は、仏教にならって神道独自の経典を確定し、一種の神道神学とも言うべき教義体系の樹立をめざしたことである。神道神学の中心は、「神とは何か」という問題、すなわち神観念である。この問題は、度会神道では「神道五部書」その他で、吉田神道では「唯一神道名法要集」で展開される。

 

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