得た理想的な仏陀(久遠実成の法身としての仏陀=本地)が、この世の迷える衆生を誘導し教化して仏道に帰入させ得度させるために、歴史上に現実的な釈迦として応現し(始成正覚の応身としての仏陀=垂迹)、さまざまな引例や譬喩や経典を用いて説法しているという仏教のこの教説が、日本における神仏関係に適用されて、仏は衆生済度のために諸所に迹を垂れて神となったのであり、日本の諸神祇は、その本源(本地)をたずねてみればみな諸仏・諸菩薩に当たり、仏も神を帰する所は一つであるという説明がなされるようになったのである。 また、このような神仏関係は、「和光同塵」として説かれることもあった。和光同塵という言葉は、「老子」にすでに見られた。その第四章に「道は沖(むな)しきも之を用ふれば盈ちざる或(あ)らむや。淵として万物の宗に似たり。その鋭を挫き、その忿を解き、その光を和げて、その塵に同ず」(道沖而用之、或不盈、淵兮似万物之宗、挫其鋭、解其忿、和其光、同其塵)とあり、第五六章にも「その兌を塞ぎ、その門を閉ぢ、その鋭を挫き、その忿を解き、その光を和げて、その塵に同ず、是を玄同といふ」(塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其忿、和其光、同其塵、是謂玄同)とあった(岩波文庫『老子』)。 さらに、天台智(五三八〜五九七)の「摩訶止観」(巻第六の下)にも、「和光同塵は結縁の始め、八相成道はもってその終りを論ず。または名づけて化となす、または名づけて応となす」(岩波文庫「摩訶止観」下)とある。 この「和光同塵」は、「老子」の場合は、宇宙の究極の原理である道(或いは玄同)が現実の場面においてはその抽象性を離れて具体的存在に密着していることを言うように、「摩訶止観」の場合も、釈迦は迷える衆生(塵)を救済せんがためこれに同和してさまざまな利益をもたらす仏の応現した姿であると説いている。 本地垂迹説の形成の由来は以上の通りであるが、前述したように、古くから伝統的な祭祀と慣行的な儀礼を中心として伝承されてきただけで、特定の教理も経典も持たなかった古神道は、ここに至り初めて、首尾一貫した教理としての本地垂迹説をもってみずからを装備し、整頓された経典に依拠して自立する必要に迫られ、ようやくそれを充たすことができるようになった。このようにして、理論的神道としての中世神道が成立するのである。 第二節 本地垂迹説に基づく神道論 先に第一節の始めにも述べたように、本地垂迹説がその教理的体系を整えるのは平安時代中期のことである。鎌倉時代に入ると、仏教界ではいわゆる鎌倉新仏教が隆盛となって、その教理のゆえに神祇不拝を唱える仏教徒が目立ってくる。その典型的な例が浄土教徒の場合である。浄土教では、阿弥陀仏に信心を集中し南無阿弥陀仏の念仏を専修することにより、阿弥陀仏に導かれて西方極楽浄土に救いとられると説く。救われるためには阿弥陀仏が唯一の信仰対象である(弥陀一仏への帰依)から、神祇は信仰の対象としなくてもよい(神祇不拝)ということになる。 この神祇不拝の立場を批判したのが、それまでの仏教の伝統を保守するいわゆる旧仏教側の論理である。奈良の興福寺の僧貞慶(一一五五〜一二一三)は、専修念仏の宗義の糾改を朝廷に請う上奏文「興福寺奏状」の中で、専修念仏の教理を次のように批判する。「念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を侍めば、必 |