外来の仏教信仰と土着の神祇崇拝との間に保たれていた並立・併存の関係は、時代の推移の中で変化をみせるようになり、奈良時代の後半に至ると、両者の関係は神仏同体思想で説明されるようになる(村山修一「本地垂迹」第四章)。たとえば、天照大神(神)と大日如来(仏)とはその呼称こそ異なるが元来同体であるとするのである。 この神仏同体観の基礎の上に、本地垂迹説が教理的体系を整えて説かれるようになるのは、平安時代中期(藤原時代)のこととされている(辻善之助「本地垂迹説の起源について」「日本仏教史之研究」所収)。 本地垂迹説の前提としての神仏同体観と密接につながるのが「神仏習合」である。神仏を同体視する見方と神仏を習合させる考え方とに立脚して、本地垂迹説は説かれるのである。 神仏習合とはどのような事態を指すのであろうか。 在来の神(国神)に対して渡来の仏を外国の神(蕃神)と受け取り、両者を併行・並立の場において見ている限りでは、両者の区別だて或いは両者の関係づけは特に問題とならなかった。しかし、両者を結合の関係の中で見ていく場合には、新たな問題が生じてくる。それが神仏習合である。 仏教信仰と神祇崇拝とが、教理や実践の形態をそれぞれ異にするにもかかわらず、両者の接触をきっかけとして、相互に密接な重層的結合関係に入るとき、そこに神仏習合が成立する。文字そのものの意味からみれば、「習合」の「習」は「積」と同義であるから、 「神仏習合」とは、「神と仏とを積み重ねる・重ね合わせること」である。したがって、神仏習合の考え方と神仏同体観とは密接につながっている。 このような考え方は、後に(山王神道の項で)見るように、日本の神々の位置づけにあたって仏教教理を用いるものであるが、本地垂迹の考え方は、仏教を受容した日本人の創作ではなくて、本来その原型は仏教そのものの中にあったのである。すでに「法華経」(如来寿量品)には、「如来は諸の衆生の、小法を楽(ねが)える徳薄く垢(く)重き者を見ては、この人のために、われは少(わか)くして出家して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説くなり。然るに、われは実に成仏してより已来、久遠なること斯くの如し。但、方便をもって衆生を教化して、仏道に入らしめんがためにのみ、かくの如き説を作すなり。(中略)如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱(すくわ)んがためなり。或いは己が身を説き、或いは他の身を説き、或いは己が身を示し、或いは他の身を示し、或いは己が事を示し、或いは他の事を示せども、諸の言説する所は、皆実にして虚しからざるなり」(如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。然我実成仏已来。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。(中略)如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。諸所言説。皆実不虚)と説かれていた(岩波文庫「法華経」下)。久しい以前にこの上なく完全な悟りを |