(是夏、大旱。遣使四方、以捧幣帛、祈諸神祇。亦請諸僧尼、祈于三宝)と載せてある。旱天に神祇と仏の両方に対して雨乞いの祈願を行なったというのである。 また、神亀二年(七二五)七月に発せられた聖武天皇(在位七二四〜七四九)の詔には、「冤を除き祥を祈ることは、必ず幽冥に憑り、神を敬ひ仏を尊ぶことは、清浄を先と為す」(除冤祈祥、必憑幽冥、敬神尊仏、清浄為先)とあって(『続日本紀』巻九)、ここでも神への畏敬(敬神)と仏への尊信(尊仏)とが一対のものとされている。 このような事実について、家永三郎は、「当時の人々において神仏両者に対する信仰は共通の宗教的行動の内に統一されてゐたのであって、信仰の対象としての神と仏との間に直接何等の関係をも設ける必要を感じてゐないのであった」と説明している(「飛鳥寧楽時代の神仏関係」『上代仏教思想史研究(新訂版)』所収)。 それではなぜ当時の人々が「神と仏との間に直接何等の関係をも設ける必要を感じてゐな(かった)」のであろうか。 この問題に答えるには、日本に伝えられた仏教が当時の日本人にどのようなものとして受容されたかをみればよいのである。 仏教渡来の年次については記録によってまちまちである(五五二、五三八、その他)が、六世紀なかばまでには仏教は複数回に亘って主として百済国から伝えられていたとすることができよう(中井真孝「仏教伝来と国際関係」「日本古代仏教制度史の研究」所収)。 『日本書紀』(巻第一九)欽明天皇(在位五三九〜五七一)一三年条には、渡来の仏を「蕃神」と記し、「元興寺縁起」には「他国神」と載せ、いずれも「あだしくにのかみ」と読ませている。また、『日本書紀』(巻第二〇)敏達天皇(在位五七二〜五八五)一四年条では「仏神」を「ほとけ」と読んでいる。いずれの場合も、仏は仏としてでなく神として受け容れられたのであった。外国の神は「〈ほとけ〉という名で呼ばれる神」であった。すなわち仏は神の一変種でしかなかった。「蕃神」「他国神」を迎え入れる側が「国神(くにつかみ)」であるが、それまで国神を崇拝してきた当時の人々にとっては、新来の仏はもともと神の一種と見なすべきものであるから、他国神と国神との間に特に区別を立てる必要を認めなかつたのである。 もちろんこれは崇仏の立場からみた場合であるが、排仏論の依り所も、人々の蕃神礼拝がひきおこすであろう「国神の怒(り)」を恐れるところにあったのであり、神とは元来異質な宗教的信仰の対象である仏を、そのことを理由に排除しようとしていたわけではなかった。排仏意識の内容は、神と基本的に異質な信仰対象としての仏を排除するものでなく、あくまで「国神」対「外国神」という神同士の間に生じる嫉妬や怒りを回避しようとするものであった。 要するに、この時期の神仏関係の特色は、神と仏との対立ではなくて並立にあったのであり、神と仏は衝突することなく併存することが、この時期における神仏両者の係わりかたの基調であった。 第三章 中世神道 第一節 本地垂迹説 |