第二章 古神道 前の第一章で述べた時代区分のうちの第五期に至ってようやく神道の宗教化の方向が明らかとなった。これが主として外来の仏教の触発によるものであることは前述の通りであるが、この段階の神道を「古神道」と呼ぶことにする。そうすると、第一期から第四期までの時期は、古神道の形成過程の諸段階を示していることになる。 古神道の呼称としては、「原始神道」「固有神道」「純神道」などなどが従来からあって、それぞれにその由来が考えられていた。神道の原始・本来の姿を「原始神道」と言い、日本の固有な伝統に根ざすという意味で「固有神道」の名称があり、それと関連して、外国渡来の思想や宗教の影響ないし混淆の無い純国産種という性格を強調するために「純神道」と呼ぶというわけである。 しかし、すでに、古神道の形成過程を見ても明らかなように、他地域の異文化からの影響を排除した日本独自の文化的伝統というようなものは、単なる観念の産物としてはあり得ても、歴史に照らして見るとき、それは存立し得ない。およそ文化事象については、特定地域に固有でそれ自体として独立なものはあり得ず、他地域の異文化との交流と交配の中で形成されてくるのであるから、純粋種ではなくて雑種こそが文化の本来の相なのである。その意味で、古神道を純神道あるいは固有神道と称することは避けなければならない。 「古神道」を英訳して”old
Kami cult”としたのは、イギリス人W
G. Aston である。彼はその著”SHINTO”(1905,London)において、日本の古神道にいう「神(カミ)」をそのままローマ字でKamiと表記し、Godという英語に置き換えることをしなかった。日本神道における神観念とキリスト教の神観念との相違を
Aston は理解していたので、彼にとって日本の神はKamiと呼ぶより他はないものであったのであろう。ただし、古神道の宗教学的位置づけとなると、
Aston は当時流行の進化論に依拠して、一神教であるキリスト教を宗教の最高度に進化した段階と見なし、古神道は多神教であるゆえに進化の程度の低い宗教であるとしている。この観点は、今日の文化相対主義の見方とはあい容れないものであるが、KamiとGodとを区別した点については、Aston の見方は妥当であったと言わなければならない。 さて、この時期の神と仏との関係はどのようであったのか。 『日本書紀』(巻第二一)が用明天皇(在位五八五〜五八七)の神仏に対する態度として伝える「天皇、仏法(ほとけのみのり)を信(う)けたまひ神道(かみのみち)を尊びたまふ」(天皇信仏法尊神道)という記事が、この時期の神仏関係の基本的性格を示していると言ってよい。 ここに言われる「神道」はもちろん古神道のことであり、後の時代の神道を言うのではなく、天神地祇のことである。用明天皇の宗教的態度においては、仏教信仰と神祇崇拝とがいずれか一方に偏ることなく平衡を保って両立していたというのである。 同様な例は、同じく「日本書紀」(巻第二九)に天武天皇(在位六七二〜六八六)五年の詔として、「是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛を捧げて、諸の神祇(かみがみ)に祈らしむ。亦諸の僧尼(ほふしあま)を請(ま)せて、三宝に祈らしむ」 |