されていない「神道以前」の原初的段階から、渡来の仏教に触発されてみずからを自覚し、それを「古神道」に形成して行くまでの過程を、発見された考古資料に依拠して区分したものである。

 第一期 B.C.300年からB.C.200年ころまで

(主として縄文時代)

死者の埋葬形式は屈葬をとる。環状石籬、組石等の石造遺構が遺存する。 

 第二期 A.D.200年から300年ころまで

(主として弥生時代)

水田(水稲)耕作が始まり、金属器が導入される。それに伴って農耕儀礼が執行され、その儀礼の司祭者が出現し、これが農耕技術の指導者ともなった。

 第三期 四世紀から五世紀まで

(古墳時代前・中期)

大司祭者が首長として共同体を統領するようになり、その墳墓が山丘上に造営される。また、死者を横穴式石室に埋葬することも行われた。山丘上の墓は死者の霊魂の還帰すべき場所と考えられていたようであり、石室に遺存する鏡鑑・玉・刀剣・農工具等の副葬品は一種の呪具と推定される。これらは、被葬者が生前その身につけていて威力あるものと見なされ、その死後に余人は手に触れ得ぬものと意識されていた、との解釈もある。いずれにせよ、この時期は、神道的習俗の徐々に形成されつつある時期である。   

第四期 五世紀から六世紀まで

(古墳時代中・後期)

この時期になると、死者埋葬の施設としての石室空間が、死者のための死後世界として確保されていることが考えられ、黄泉国の観念が形成されつつあったと見られる。鏡・玉・剣がより一層重視されるようになった。

 以上の諸時期に亘って、神道的習俗が祭祀や死者儀礼を共同に執行することの中で徐々に形成されつつあったが、そこへ遅くとも六世紀中葉までには仏教が伝来して、神道史に一時期を画する第五期が訪れるのである。

第五期 六世紀から七世紀まで

(仏教渡来以後)

この時期に至って、日本人は、仏教と接触したことをきっかけに、それまでのような祭祀儀礼の共同を主軸とする神道的習俗の段階を脱して、その習俗の意識的固定化をはかり、神道の宗教化とも言える方向をめざしたのである。今日に伝えられる記紀所載の古伝承も、この時期を中心に体系を整え組織化されたと見られる。

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