六世紀以後にならなければ、受容の可能性はまだほとんど考えられないのであって、史らももっぱら史部流の文章を代々継承しており、実際に史料の上にも、儒教思想の影響のあとはまったく現われていない。仁徳天皇の仁政や莵道稚郎子との皇位互譲の話などは、『日本書紀』の編者の潤色とみるほかはないのである。

 これに対して、六世紀になってからの五経博士の来朝ほぼ事実とみられる。『日本書紀』によると、継体天皇七(五一三)年に百済国は、任那と係争中であった己汶の地の領有を認めてもらうために、日本に使者を遣わして五経博士段楊爾を貢上し、朝廷が己汶の領有を承認すると、同一〇(五一六)年に礼使を遣わして五経博士漢高安茂を貢上し、段楊爾と交替させた(史料四)。このころ、百済は中国の南朝としきりに通好して、その文化を盛んにとり入れていたから、段楊爾らは六朝の儒学をわが国に伝えたわけである。こういう事情で、わが国としては初めは受動的だったが、その後も継続して博士が貢上されたらしく、欽明紀一五(五二一)年二月の条には、五経博士王柳貴が前番の馬丁安と交替した記事が見えている。

 このように学者が絶えず来朝していれば、当然日本人の間に儒教思想が植えつけられることになる。七世紀に入って、十七条の憲法十二階の冠位の階名のように、その影響のはっきりうかがわれる史料が初めて出てくるのは、その表われといってよい。しかしこの場合にも、始めのうちは、その普及は仏教のように急速ではなく、おそらく範囲は上流社会のごく一部に限られていた。それは一つには、当時の学問教養の基本的な学習方式が、家庭教師的な個人教授によっており、五経博士にしても、おそらく皇室とその周辺のごく少数の人に教授するだけだったためとみられるが、より根本的には、当時の儒教が訓詁の学としての性格の強いものだったために、高級な知的教養として受けとられ、漢文の文章に未熟な当時の段階としては、広く習得されることが現実に困難だったからであろう。

 やがて、唐から帰国した南淵請安や僧旻のもとに貴族の子弟が集まって講義を聞くというような学習方式も行なわれるようになり、さらに大化改新以後、隋・唐の律令制度を根した国家制度がとられるようになると、儒教は貴族階級の間に一般化しただけでなく、国家の政治理念あるいは為政者の必須の教養とされるにいたったが、しかしけっきょく、思想としてはそれほど広く深く浸透しなかった。それはやはり主として儒教が、あくまで面正しい学問としての内容をもち、人々の現実的な関心をそそる面があまりなかったためであろう。

  陰陽道 陰陽道は、陰陽の二気と木火土金水の五行の相互関係によって天文・自然などの諸現象を説明する、いわば素朴で非科学的な自然科学であるが、この陰陽五行説にもとづいて『易経』を占術に利用した易占や、経書を解釈しなおした讖緯説、あるいは人事が天に感じで祥瑞や異変が生じるとする天人感応思想などをもその内容としている。わが国ではこれを、中国でかなり高度に発達していた天文学・暦学と並ぶ方術のーつとして採用したが、その体系的受容は、やはり六世紀に入ってからとみられる。

 すなわち欽明紀一四(五五三)年六月の条に、朝廷は百済からの使者に対して、医博士・易博士・暦博士の交替の期が来たから、かわりの博士を送るべきこと、および同時にト書・

 

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