暦本と種々の薬物を送るべきことを命じた、という記事があり、翌年二月の条に、百済がこれに応じて易博士の王道良らを貢上したという記事がある。これらの記事は、この少し前から易博士が交替制で来朝していたことを物語っているが、この易博士というのは、同時にト書を要求しているところからみて、陰陽道の学者であることは明らかである。『周書』異域伝などによると、このころ百済では南朝の学芸をとり入れ、陰陽五行説やト筮・占相の術などが流行していたというから、おそらく朝廷は、五経博士の交替派遣が始まると、まもなくそれと同じやり方で易博士なども派遣するように要求したのであろう。したがってその受容の仕方は、儒教の場合よりもやや能動的だったということができる。 また、その学習方法もやや違っていたらしい。右の易博士については直接にはわからないが、後に推古天皇一○(六〇二)年に百済僧の観勒が暦本や天文・地理の書、遁甲・方術の書をもって来朝したときには、それぞれ学生を選定して暦法・天文・遁甲・方術を学ばせているから、陰陽道については、世襲の専門家を養成しようとしたことが知られる。遁甲というのは一種の星占いで、やはり陰陽道の一要素である。このような学習方式の相違は、陰陽道を知的教養としてよりは、むしろ技術的な知識として受けとったことを物語るものであろう。 このようにして導入さねた陰陽道は、その普及においても、儒教よりむしろ速かったらしい。たとえば、記・紀の神代の巻の記述に陰陽の思想の影響がかなり強く見られることや、神武紀元の年代算定が早くも七世紀に讖緯説にもとづいて行なわれていることからもそれはうかがわれる。そしてその普及については、僧旻の存在を見のがすことはできない。 すなわち彼は、留学二四年の後、舒明天皇四(六三二)年に帰国したが、『大織冠伝』によれば、朝廷の諸氏の子弟を集めて周易を講じたといい、『日本書紀』によれば、大流星や彗星の出現に際して、これを中国の緯書の文章をあげて説明したという。また、大化六(六五〇)年二月に穴戸(長門)の国から白い雉が献上されると、彼は「王者四表にあまねきときは、則ち白雉見ゆ。」などという緯書の語句をあげ、帝徳が天に感応した結果の祥瑞だから天下に大赦すべきだと説いた。朝廷はこの意見を採用して大げさな祝典をあげ、年号を白雉と改めたが、祥瑞思想はこの後、長く律令貴族の政治思想に深い影響を与えることになった。奈良時代の改元は、ほとんど全部が祥瑞によるものであった。 このようにしてやがて陰陽道は、奈良朝の諸学芸の中の重要な一部門を占めることになったのであるが、儒教に比べて、より容易に滲透したのは、やはり陰陽道の諸要素がもっていた卑俗さ、わかりやすさの面、あるいは現実的でかなり呪術的・迷信的な性格が、当時の人々にとって受け入れやすかったためといってよいであろう。 仏教思想 仏教が初めて正式に朝廷に伝えられたのは、やはり六世紀の前半、欽明天皇のときで、百済の聖明王が使を遣わして、金銅釈迦仏像一体と幡・蓋と経論を献ったという。周知のように、『日本書紀』には同天皇一三(五五二)年一〇月の条にその記事があるが、『元興寺縁起』・『上宮聖徳法王帝説』などの古い伝えには、欽明天皇の戊午(五三八)の年となっている(史料五(1))。欽明紀には戊午の年はないが、このあたりの『日本書紀』の紀年には問題かあるので、欽明天皇か即位して七年目ころの戊午(五三八)の年と考え
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