で行なわれた。朝廷では、これらの文筆専門家を世襲職に編成し、これを史と呼んだ。史の姓をもつ諸氏はほとんど大和と河内の地方に住み、大和の史らの中心には、応神朝に渡来した阿知使主の子孫と伝える東漢氏の一族の東文氏がおり、河内の史らの中心には、同じく応神朝に渡来した王仁の子孫と伝える西文氏がいた。漢字の音と訓を混用し、漢文脈の中に日本語の語法をまじえたいわゆる史部流の文章は、彼らの手で工夫されて発達したものである。 このような漢字の導入は、思想史の上でも画期的な意義をもつものだったといわなければならない。それは、一般に文字が、思想の広範囲の伝達、および後代への継承・蓄積を可能にし、それによって思想の発達を格段に促進するものだからであることはいうまでもないが、ただそれだけでなく、日本の場合には、これによって体系的な大陸思想の摂取が初めて可能になったからである。もちろん前述のように、大陸との交渉は紀元前からあったのであるから、四世紀以前に大陸思想の影響が全然なかったということはできない。しかし、そのような影響は断片的なものであって、ある程度体系的な思想が受容される条件は、ほとんどなかったといってよいのである。 儒教思想 儒教の伝来については、有名な王仁の伝説がある。これは西文氏の祖先に関する伝えであって、『古事記』・『日本書紀』の記事を綜合すると、応神天皇のときに百済の肖古王が阿直岐という者に良馬二匹をつけて貢上してきたが、阿直岐がよく経典を読むので、汝にまさる博士がいるかと問うたところ、王仁という者が秀れていると答えた。そこで王仁を召すと、百済王は王仁に『論語』一〇巻と『千字文』一巻を付けて貢上したので、太子の莵道稚郎子は彼を師として諸典籍を学んだ、ということになっている(史料四)。 この伝えは、儒教の初伝として古くから重要視されてきたものであるが、しかし記・紀のこのように古い年代の記事を、すぐそのまま信用することはもちろんできない。ことに応神天皇何年という年月や、『論語』・『千字文』を持ってきたとか、太子の師となったというようなことは、後世の造作という疑いがきわめて濃厚である。しかしながら最近では、そういう点を除けば、だいたいこのようなことがあったとみてよいのではないか。しかもそれは任那の成立と関連した事実で、三七〇年代のころのことではないかと考えられるようになってきている。したがって、西文氏の祖で文筆の素養のある人物が、朝廷の朝鮮進出の開始期に渡来したということは、ほぼ事実と認めてもよいであろう。 しかしながら、これをもって儒教思想の伝来とすることができるかどうかは、やはり疑問である。なるほど、楽浪・帯方の文化は漢・魏系統の文化であって、それは前漢の武帝が儒教を国家の教学として採用してから後のものである。そして楽浪・帯方両郡にいた中国人の多くは、郡の滅亡後、朝鮮各地に分散した。東文氏の祖も、中国系でもとは帯方郡にいたと称している。したがって西文氏の祖も、百済系と称してしてはいたが、当然、儒教色の濃い文化教養を身につけていたであろう。また、彼らの手で漢字が導入されれば、漢字は表意文字で、個々の文字それ自体にすでに中国人の物の考え方がまつわりついているから、それだけでも儒教的な観念がある程度おのずから伝えられたであろう。しかし、多少なりとも体系的な儒教思想となると、やはりいくらか漢文脈の文章にも習熟し始める
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