とした。で天皇は「神浅茅原」に八十万神を会えて卜問の儀式を行なった。その時、倭迹々日百襲姫命に神がかりして、我れを祭れば治まるだろうとの神の意志が現われた。それに対して天皇は、かく教ゆるは誰神ぞと問い、その答えとして大物主神の名が知られたのである。ここでも神がかる神は予知されていない。むしろその神の名を探求するのが卜問の目的であった。しかるにその神の意志の現われる通路は、天皇が衆を会えて卜問する際の神かおりというごとく、具体的に限定せられたものである(祀られる神よりも祀る神の方が強い存在を持つということは、ここにも示されている。 祀られる神の不定性というごときことは、一定の神を祀っている神社の場合には、全然無意味であるが、ここに問題にするのはそういう神社の確定して来る過程である。神がかりを媒介として不定の神が一定の神となれば、そこにこの神を祀る神社が成立してくる。崇神紀における大物主神も、息長帯姫の物語における三筒男の神も、ちょうどそういうふうに物語られている。神社はいわば神命の通路が限定されて具象化したものなのである。もちろんわれわれは右の神がかりの際に一定の神を祀る神社が存しなかったというのではない。崇神紀においては前記卜問の前年に天照大神を倭の笠縫の邑に祭ったと記している。息長帯姫の場合にもすでに伊勢の神宮は存していた。のみならずこの物語は天神地祇、また山神河海神等の多くの神社の存在を暗示している。が、われわれの注目するのは、これらの神がかりが皆一定の神の命を請わずして、不定の神の命を請うという形式を取っている点である。新羅を討てという天照大御神の御心は、神宮において与えられたのではなかった。してみると、一定の神を祀る神社の存在は、神がかりにおける神の不定性と何ら抵触するところはないのである。この不定性にもとづいてわれわれは、神命の通路が前景に出で、その命を発する神々が後ろに退いていると主張するのである。 この視点をもって記紀の物語における神々を考察すると、われわれは一つの驚くべき事実に衝き当たる。神代史において最も活躍している人格的な神々は、後に一定の神社において祀られる神であるにかかわらず、不定の神に対する媒介者、すなわち神命の通路、としての性格を持っている。それらは祀られるとともにまた自ら祀る神なのである。そうしてかかる性格をぜんぜん持たない神々、すなわち単に祀られるのみである神々は、多くはただ名のみであって、前者ほどの崇敬をもって語られていない。 祀られる神が自ら祀る神であるということを最も顕著に示しているのは、神代史の主神天照大御神の物語である。天照大御神は三種の神器とともに天孫をこの国土に降臨せしめた神であり、従って天つ日継の現御神にとって皇祖神である。この神が我が国における最も大いなる「祀られる神」であったことは言うまでもない。しかるに高天原にあっては、この大神は天上の国の主宰者として自ら神を祀っているのであって、他からの祭祀を受けているのではない。従って天照大神は、祀りを要求する神のように己れの意志を祟りによって現わしたり、あるいは絶対の神究極の神のように己れの意志によってすべてを支配したり、などはしない。天孫降臨の物語においては、天照大神は常に高皇産霊尊とともに活動しているのみならず、個々の行動の決定に際しては天の安の河原に八百万神を集え思金神をして考えしめるのである。思金神とはムスビの神すなわち生産の神の子であって、思索の働きを現わす神にほかならない。大神はこの会議の結果に従って事を決するのであっ
|