だまし討ちの名人だ。油断するな」と警告するものもあったほどであります。これにたいしてマッカーサーは「八千万の日本人がすべて芝居の演技をしているとは思われない」と、軽く受け流したのであります。 つまり戦争という局面では一億玉砕ということが守るべき原理でありましたが、平和という新しい世界では、アメリカ風の民主主義が守るべき原理となったのであります。 このような日本人の変わり身の早さというのは、実は今に始まったことではありません。作家の司馬遼太郎さんなどがよく引かれる例ですが、幕末の彦根藩などがそれであります。彦根藩の井伊家といえば、徳川家康いらいの譜代筆頭の家柄で、幕末には井伊大老を出したわけであります。その大老が暗殺された数年後に、なおも佐幕(幕府を佐ける)をつづけるか、勤王(王=天皇に忠勤を励む)に転向するかが問題になり、藩士一同にアンケートを出したのであります。このとき足軽以上の藩士一万三千余人のうち、佐幕をつづけよという意見のものはただの四人であったということであります。見事な転向ぶりというほかはありません。 しかし、この転向ないし変身は、無節操というのとは違います。さきに申しましたように、常に新しい原理に忠実だから、そうなるのであります。その背後には、世界は一つではなくて多数であり、したがって原理もまた多数であるという、多元的思考法があるわけであります。 中国の「使い分け」方式、日本の「のりかえ」方式 中国も日本と同じく多神教の国であり、したがってまた多元的思考の行なわれる国であります。ただ同じく多元的思考と申しましても、日本の場合とは少し様子が違っております。 日本人のもつ多元の世界は、一度に現われるのではなくて、ちょうどスライド写真を見るように、一場面ずつ交代に出現してまいります。ですから日本人は、眼前の場面の変化に応じて態度を変える、つまり「のりかえ」方式になるわけであります。 ところが中国人の場合は、その多元の世界が一度に目の前に現われるのが普通でありまして、そのうちの気に入ったものを選ぶという「選択」方式、あるいは「使い分け」方式をとるのであります。 この中国人の「使い分け」方式というのは、ずいぶん古くから見られるものであります。たとえば儒教と老荘とは、前者が道徳や政治を肯定するのにたいして、後者はそのような人為を否定して自然のままに生きることを理想とするもので、相反する思想であります。ところが中国の知識人は、儒教と老荘のいずれをも奉ずるといった者が少なくありません。これは実は使い分けをするからであります。つまり官吏という公の立場では儒家でありますが、家に帰って寝ころふと老荘になるといった調子です。また、よく言われることでありますが、「中国人は得意の時には儒家になり、失意の時には道家になる」というのも、この使い分けを言ったものであります。 一例をあげますと、宋の詩人・文章家として有名な蘇東坡などがそれであります。この人はまた大政治家であり、宰相にもなっております。それで蘇東坡の詩や文章を読んでみ |