まれてまいります。ここでは「そうも考えられるが、こうも考えられる」というような、あいまいな多元的思考法は許されないことになります。つまり一神教を奉ずるヨーロッパでは、その思考法も一元的になるわけであります。とすれば、多神教の日本や中国では、多元的思考法が行なわれるのではないかということが考えられます。 このことにつきましては、ルース・ベネディクト(Ruth Benedict, 1887-1948)の『菊と刀』の言っていることが参考になります。彼女の言うところによりますと、日本人にとっては、世界はただ一つではなく、多数の世界がある。したがって世界の原理もただ一つではなくて、複数であるというのであります。たとえば日本人にとっては、義理の世界とは別に、人情の世界というものがある。義理の世界では、義理という原理にしたがって行動するのが正しいが、人情の世界では、人情という原理にしたがうのが正しい。たまに義理の世界と人情の世界が同時に現われるようなことがあると、義理と人情の板ばさみといったような困った状態に陥ることもあるが、とにかく日本人にとっては、世界は多数であり、原理も多数あるのであります。 ところがベネディクトによりますと、西洋人のばあいは、世界は一つしかなく、したがって真理、原理というものもただ一つしかない。だから、どんなに局面の変化が起こったとしても、原理というものは変化しない。原理は首尾一貫して存在する。つまり西洋人はいかに局面の変化が生じようとも、一つの原理を徹底的に貫こうとするのであります。 これにたいして日本人は多元の世界に住み、多元の原理を持っているのでありますから、何か局面の変化が生まれますと、新しい世界が現われたとし、新しい原理が生まれたと解釈いたします。そこで今までもっていたイデオロギーをあっさり放棄し、新しいイデオロギーを採用する。 この日本人の態度は、西洋人の目から見ますと、いかにも節操がないように見える。しかし日本人自身にとってはそうではない。局面の変化というのは、古い世界が去って新しい世界が現われたということであり、新旧の原理が交代するということである。古い世界においては古い原理に忠実であり、新しい世界においては新しい原理に忠実なのであるから、節操がないという批評はあたらない、というのであります。 このようなベネディクトの指摘は、こんどの敗戦直後の日本人の態度の説明として、よくあてはまることがわかります。 マッカーサーの占領軍が日本本土に始めて上陸しようとしたとき、かなり悲壮な覚悟をしていたようであります。南太平洋の島々で最後の一兵まで戦った日本人であるから、本土上陸ともなれば、当然激しい抵抗が予想されたからであります。ところが、いざ上陸となると、日本人は抵抗するどころか、むしろ歓迎に近い態度をとったのであります。そこでマッカーサーの占領軍の兵士は、ピストル一つ帯びない非武装の姿で日本の町を歩きました。丸腰の占領軍というのは、おそらく世界の歴史においても前例がないでありましょう。むろんそれはマッカーサーの占領政策によるものですが、それを可能にしたのは日本人の態度であります。現に、西ドイツや南朝鮮のアメリカ占領軍の兵士は武装のままでありました。 これを聞いたアメリカ本土の人々のうちには「日本人は真珠湾の奇襲でもわかるように、 |