乏しい。つまり一神教の発生する刺激がないのであります。このためアニミズム的な多神教が保存されやすいことになります。 このように日本と中国という農業民族の宗教は、どうしても多神教の方向をとるのでありますが、同時に神さまの性格が温和で女性的になる傾向をもっております。これは砂漠生まれの神さまが、厳しくて男性的であるのとは全く対照的であります。 たとえば日本の神話に現われる神さまのうちで、荒ぶる神とされ、男性的な神とされておりますスサノオノミコトは、ずいぶん乱暴なことをするように伝えられておりますけれども、よく考えてみれば結局は子どものイタズラみたいなものが多いわけであります。そのスサノオノミコトも、出雲では大蛇を退治して娘さんを助けているのでありますから、根は善神であるということになるかもしれません。すくなくともキリスト教でいう悪魔の概念にはあたらないのであります。 さらに日本や中国で、民衆の間に人気のある仏さまと申しますと、阿弥陀さま、観音さま、地蔵さまなどがあげられます。これらはすべてやさしい母親的な性格をそなえております。とくに阿弥陀さまは、どんなに罪の深い人間であっても、一度の念仏で直ちに救ってくださるというのでありますから、まことに広大無辺の慈悲の持ち主だといえます。 これがキリスト教では、そうはいかないのであります。なるほどキリスト教の神も、罪深い人間を救わないわけではありませんが、しかしその救いの前に一つの条件が必要であります。つまり悔改め、懺悔ということが必要なのであります。これは、やはりキリスト教の神が父親的であるからだと思います。よく「天にましますわれらの父よ」と申しますが、それはまさしく父であり、母ではありません。 一昔前の日本では、家に道楽息子が出ますと、よく勘当ということをやったのでありますが、むろん勘当をやるのは父親で、母親はただおろおろするばかりです。その道楽息子が家に帰ろうとすれば、父親の前で「改心」を誓う必要があるわけであります。つまり懺悔が条件になります。母親はどうかと申しますと、ただ息子が帰ってきてくれたというだけで胸がいっぱいになり、改心したかどうかなど考える余裕もありません。 その意味から申しますと、ナムアミダブツの一声だけで、どんなに罪の深い人間であっても直ちに救ってくださるという阿弥陀仏は、「お母さん」という一声だけで、熱い涙とともに道楽息子を胸にいだく母親と同じだ、ということになります。 こういうわけで、日本と中国のいずれの民族におきましても、その信仰は多神教的な傾向が強く、同時にその神仏はやさしく寛容な母親的性格をもっているのであります。 一神教の一元的思考法と多神教の多元的思考法 ところで、今までは一神教と多神教ということを、もっぱら宗教的な信仰の問題として扱ってまいりましたが、実は宗教というものはあらゆる文化の根本になるものでありますから、信仰の形態の違いというものは、文化の違いとなって現われてまいります。まず何よりも「ものの考え方」がそれによって変わってくるのであります。 一神教のほうから申しますと、これは最高の存在である神はただーつだとするのでありますから、そこから「真理もただ一つであり、世界もただ一つである」という考え方が生 |