ふんだくるのであります。すべてがこの調子であります。 ですから、遊牧民の近くに住んでいる農耕民は、たいへんであります。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』では、「遊牧民族にとっては略奪は暴力行為ではなく、農民が秋に取り入れをするのと同じく経済行為である」という意味のことを申しております。そのベンダサンに言わせますと、「日本人がうらやましい。こんな安全な島にいるおかげで、一度も外敵に襲われたことがない。それに比べると、ユダヤ民族というのは、ちょうどハイウェイの真ん中に立たされた赤ん坊のようなものである」というのであります。どうも中近東というのは、たいへんなところのようであります。 しかし戦闘的なのは中近東の砂漠の民ばかりではありません。ご承知のように、中国の北には、すぐ砂漠や草原がありまして、昔から遊牧民族が住んでおりました。秦の始皇帝が万里の長城を造ったのも、この砂漠の遊牧民の侵入に苦しめられたからであります。それにもかかわらず、砂漠の遊牧民はたびたび長城を越えて中国に侵入したばかりでなく、何度か中国全体をその支配下においたのであります。有名なジンギスカンの時代には、中国ばかりでなく、遠く東ヨーロッパに至る地域を征服しております。 しかし遊牧の民がいかに勇敢であると申しましても、一人では戦えません。どうしても戦闘集団としての団結が必要になり、鉄の規律が要求されます。そのばあい神さまが複数であったり、指導原理が多元であったりしますと、戦闘集団は分裂して混乱におちいるおそれがあります。そこに、ただ一人の神、しかもハッキリした人格をそなえた神、というものが要請されるわけであります。つまり一神教であります。 これに比べますと、農業民族の神さまというのは、一応人格神とされている場合でも、その人格というのはあまりハッキリしないものが多いようであります。山の神とか穀物の神と申しましても、どんな顔をしているのか、よくわかりません。井戸の神さま、便所の神さまとなりますと、いよいよわからなくなります。つまり農業民族の神さまというのは自然のうちに溶けこんでいるのでありますから、どうしても人格がぼやけてくるのであります。 ところが遊牧民族の神は、そういう自然のなかに溶けこむ神ではなく、自然に対立する神であり、また異部族と対決する神であります。そのため神の人格性がハッキリするとともに、強い個性をもつようになります。 たとえばユダヤ民族の神であるエホバ(ヤハヴェ)は、ユダヤ人がエホバ以外の神さまを拝んだりすると、たちどころに神罰を下すという恐ろしい神さまでありまして、そのために「ねたみ深きエホバ」とよばれていたのであります。これは砂漠の神の典型ともいえるものであり、一神教の性格が強くあらわれております。 しかも、それはエホバばかりではありません。同じ砂漠に生まれてまいりましたイスラム教も、アラーという一神を奉ずる宗教であります。イスラムという言葉は「服従」または「絶対の帰依」という意味だそうでありますが、つまりアラーの一神に帰依し、その他の神はいっさい認めないという宗教であります。 ところで、この砂漠の宗教であるユダヤ教から、キリスト教が生まれたわけであります。われわれ素人は、この二つの宗教を全く別の宗教のように考えやすいのでありますが、実 |