この砂漠の遊牧民に着眼されたわけであります。しかし、この石田さんの考え方の出発点になりましたのは、和辻哲郎さんの有名な『風土』という書物であります。私も学生時代に和辻さんの講義を聞いたことがありますが、これよりも以前にすでに『風土』の構想ができ上っていたようであります。 その和辻さんの『風土』では、「砂漠という環境では、人間は自然に対立し、自然に対抗するという状況におかれる」ということが強調されております。 これは和辻さんには関係のないことでありますが、新聞のコラム欄で、こういうことが書かれていたのを思い出します。ある人がアラビアヘ行きまして、「近ごろ日本では公害が問題になり、自然を守れということがやかましく言われている」と申しましたところ、相手の現地人はけげんな顔をして、「国が変わると、ずいぶん妙なことを考えるものだ。こちらではアスファルトの道を一メートルでも余計に伸ばして、砂漠の自然を少なくすることが必要だ。自然を大切にするようなことをすれば、われわれは生きてゆくことができない」と言ったそうであります。 つまり「自然を守れ」とか「自然に帰れ」といったことは、日本のような風土で通用する思想でありまして、砂漠では通用しないのであります。砂漠の世界では、自然は戦うべき相手であり、征服されるべき相手であります。そうしなければ人間は死ぬほかありません。 このように砂漠では「人間が自然に対抗する」というところから、人間という意識、人格という意識が強くなる、と和辻さんは言われるのであります。この人格という観念の確立は、やがて「人格神」を生む基となります。そこで和辻さんは「砂漠的人間の功績は、人類に人格神を与えたことにおいて絶頂に達する」と言われております。 このように砂漠の遊牧民は、まず自然と戦わなければなりません。しかし、そればかりでなく、隣接する異部族や、農耕民と戦う機会が多いのであります。 遊牧民は、馬という機動力に富んだ動物を自由に乗りまわすという生活をしております。それはそのまま戦闘力に通ずることになります。その意味で、遊牧民は生まれながらの、すぐれた戦士であります。 遊牧民は誇りの高い戦士として有名であり、同じ土地にへばりついて虫のような生活をしている農民をあわれみ、さげすむのであります。実は農民のほうが生活程度が高く、遊牧民のほうが貧しいのでありますが、それにもかかわらず遊牧民は農業をいやしむのであります。そのため中近東の諸国は、遊牧民をしだいに定往させようと骨を折っているらしいのですが、遊牧民はなかなか承知しないということであります。 ご承知かと思いますが、朝日新聞の記者で本多勝一という人があって、エスキモー族やニューギニアのダニ族の間に入りこみ、何ヵ月かの共同生活をしました。そのあと、アラビア砂漠の遊牧民のベドウィンといっしょに生活したのであります。その感想はと申しますと、エスキモーやダニ族と別れるときは、別れが惜しい気持がしたけれども、ベドウィンと別れたときは、助かった、セイセイした、という気持ちになったそうであります。 なぜ、ベドゥィン族にたいしてそのような気持ちになったかと申しますと、かれらは誇りが高い。何か物をやろうと言うと、いらないと言う。そのかわり、何か理由をつくって、 |