文化が右のような意味のものであるとすると、それは本来文明の意味をも含んでいて、それと対立するものではないはずである。しかるに文化財のうちで特に学問芸術宗教道徳などを重んずる態度と、法律経済国家その他生活を安寧ならしめる種々の設備などを重んずる態度とは、おのずから分かれてくるように見える。ヘーゲルが精神の展開の最高の段階に哲学、芸術、宗教を置いたように、ドイツ人の「文化」の考えは前者の傾向を持つように見える。それに対して、功利主義の哲学の栄えたイギリスにおいては「文明」というものは主として後者の態度において考えられている。これは一つには言葉の相違にも基づいているかも知れない。いずれもラテン語から来ているのではあるが、Kultur のほうはもと耕すという意味の言葉から出ているので、農耕によってものを作り出すこと、育て上げることなどから、だんだん精神的な価値のあるものを作り出すことのほうへのびて行ったものである。だから、もともと宗教や芸術に関係した意味をも含んでいるのである。しかるに Civilization ほうは、ギリシヤ・ローマの古代の都市国家に連関したことを意味する言葉から出ているので、そういう国家を形成しうるような開けた段階に達することを文明の第一の特徴として認めていることになる。つまり田舎と都会というふうに立場も違えば、また人間の作り出した文化財のうちのどれを特に重んずるかという目のつけどころも違う。それが言葉の選択の背後にあるのである。

 そこでドイツの学者の間には、この二つの考えにはっきりと優劣をつけようとする試みが現われてくる。Civilization(文明)は外部生活の発達、すなわち殖産工業や法律制度の進歩を意味するに過ぎない。しかるに Kultur(文化)は内部生活の発達、すなわち学問芸術宗教などの進歩を意味するのである、という人もあれば、また文明は文化がその創造力を失った最後の段階である、という人もある。がそれに対して、Civilization の語を選び取った立場の人はいう。未開人と文明人とを区別するものは、宗教、芸術、学問などではない。未開杜会にも宗教や芸術はある。しかもそのつとめている役目は、文明社会においてよりもいっそう重大である。学問はそれほどではないといえるが、しかしその社会特有の知識の蓄積はある。それはしばしば、きわめて手の込んだものである。だからそれらのものによって未開状態を決定することはできない。しかるに国家を形成しているか否か、法律や制度が整っているか否か、生活を安全ならしめるような衛生設備があるかどうか、道路や通信設備などが整っているかどうか、というふうなことは、すぐに見わけがつく。そうしてそれらのことは、この社会が未開であるかどうかを明確に決定しうる徴証なのである。してみれば、「文明」こそは未開か否かを決定しうるが、「文化」はそうでない。「文明」の概念のほうが進んでいるゆえんである。

 こういう論争を背後に控えながら、明治時代にはやっていた「文明」の語に代わって、大正の初めごろから「文化」という言葉がはやり出したのであるが、それとともにすぐに「文化住宅」「文化村」「文化生活」という類の言葉がはやり出した。「文化住宅」として最初に名乗りを上げたのは、西洋ふうの長屋建築であったと思う。日本ふうの長屋は住宅建築としては最下級であったが、西洋ふうの長屋は、建築が西洋ふうの重層建築であって形の上からでも長屋ではなく、間取りや家具が西洋ふうであり、鍵を使う西洋ふうな生活様式もここでは可能であり、かつ便所が水洗式できわめて衛生的であるというような点か

 

2