ら、文化住宅は在来の日本の住宅よりも進歩したものであると認められたように思う。文化村や文化生活も同じような意味で進歩を現わしていたのであろう。しかしこういう意味の進歩は、「文化」と区別された意味での「文明」が特に強くおのれの持場として表明していたものなのであるが、それにもかかわらず、文化という言葉がはやり出すとともに、その言葉によって表示せられたのが、ほかならぬ文明の持場そのものであったということは、笑っていいのか悲しんでいいのかわからない現実なのである。学者がどれほど「文化」と「文明」という言葉によって別々の概念を現わそうとしても、それを突き崩すような用語が世間で用いられ、そうしてそのほうが広く流通したとなると、それを食いとめる方法などはもうないのである。そのかわり、学者が努力しなくても、文化という言葉は文明という言葉が特に狙うはずであった意味をも、おのれの内におのずから吸収してしまったことになる。「文化」と「文明」とを峻別したいと思う人には不便であろうが、自然に対する人為の領域、価値客観化の領域を「文化」という言葉で現わしたいと思う人には、このほうがかえって便利であるかも知れない。
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