なったのである。なお、法然の主著「選択本願念仏集」は、彼に帰依した九条兼実のために書いたものといわれ、浄土宗の本旨を明らかにしたものである。

<浄土宗の諸派>法然の死後、門弟たちは多くの流派に分れてその教えをひろめた。降寛(11481227)の長楽寺流、覚明(12711361)の九品寺流、証空(11771247)の西山流、弁長(11621238)の鎮西流などがそれである。このほか、親鸞は浄土真宗をひらき、西山流から出た一遍は時宗をひらいている。

 【浄土真宗】親鸞11731262)は藤原氏の末流、日野有範の子として京都に生まれ、9歳で出家して叡山にのぼり、29歳のとき法然の門にはいった。彼は師の法然が流罪となったとき越後に流されたが、のち常陸に移った。そして関東の農民の間に教えをひろめ、63歳のとき京都にかえり1262(弘長2)年に90歳で死んだ。彼は、法然の教えをさらに一歩すすめて、阿弥陀仏を信仰する気持をおこし念仏を唱えさえすれば、その瞬間に極楽往生が約束されると説いた。さらにまた、戒律をおかした罪深い悪人こそが阿弥陀仏の救おうとしている人びとであるという悪人正機の説をたてた。こうして親鸞の教えはおもに農民の問にひろまったが、親鸞自身は一宗をひらこうという意図をもっていなかった。しかし、親鸞亡きあと、関東の弟子たちが、下野高田に専修寺派をたて、親鸞の遺骨をまもる曽係の覚如は本願寺派をたて、いわゆる浄土真宗の教団が形成されたのである。親鸞の代表作に「教行信証」がある。この書は正式には「顕浄土真実教行証文類」といい、ひろく経典の文句を集め、それに解説をつけたものである。

 【時 宗】一遍123989)は名を智貞といい、伊予の土豪河野通広の子に生まれた。一遍の前半生は明らかではないが10歳で出家をし、13歳で大宰府におもむき、浄土宗の西

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