*    天台宗では延暦寺派(山門)と園城寺派(寺門)とが争い、真言宗では京都で仁和寺派と醍醐寺派が対抗し、紀伊では金剛寺派と大伝法院派とが争っていた。[戻る]

  ここに登場してきたのがいわゆる鎌倉六宗の開祖たちであった。これら諸宗の共通の目標は末法からの救済であり、救われるためには困難な修行の必要ないと説き(易行)、多くの経典のなかからただ一つの教えを選び(選択)、それだけにすがる(専修)という特色をもっていた。そこで武士も庶民も争ってこの新仏教に救いを求めていったのである。

 もっとも、これらの開祖たちは同時代に一斉にあらわれたのではない。まずあらわれたのは平安末期の法然と栄西で、それぞれ念仏と禅の教えをひっさげて、転換期の人びとの求めにこたえようとした。ついで鎌倉前期に親鸞と道元があらわれて念仏と禅の教えを発展させ、鎌倉中期にあらわれた日蓮と一遍は、新たな教えを展開して時代の要請にこたえようとしたのである。

 これらの六宗を大別すると、念仏の教えが宗、禅の教えが2宗、題目の救いを説く法華宗が宗ということになる。それでは、それぞれどのような教えを説いたのであろうか。

 【浄土宗】法然11331212は美作国(岡山県)の稲岡荘の押領使の子として生まれた。13歳で叡山にのぼって天台を学び、やがて叡空について念仏の門にはいり、法然房源空と名のった。彼はやがて、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば、だれでも極楽浄土に往生できるとの悟りに達し、山をくだると専修念仏の救いを説いた法然43歳のときでる。彼は、これまでの信仰が、寺塔を建て仏像をつくり、経を読んできびしい戒律の生活をすることを要求したのに対して、これらの寄進も学間も戒律も必要としない在俗のままで信仰生活ができることを説いた。もともと法然には、新しい宗派をひらく意志もなく、他の宗派を排斥する意図もなかったのであるが、南都北嶺の旧仏教側は、強い迫害をはじめた。そのため1207承元1)年には讃岐へ流されるにいたった(承元の法難)。やがて赦免されて帰京した法然は1212(建暦2)年、京都東山の大谷で死んだ。法然の弟子がこの地に建てたのが知恩院である。この教えはおもに公家から武士の間にひろまり、浄土宗と

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