山派に帰依した。伊予で参籠ののち、高野山から熊野へでた一遍は、ここで信心の有無、浄・不浄を問うことなく、念仏を唱えるだけですべての人が救われるとの悟りに達し、全国遊行の旅にのぼった。一遍が遊行上人とよばれるのはこのためであるが、彼は熊野や伊勢の神杜信仰もとりいれ、また熱狂的な踊念仏によって、とくに下層民衆の心をとらえた。一遍にしたがう人びとのグループを時衆とよんだが、各地に道場を建てて教化活動にしたがった。のちに藤沢に清浄光寺がつくられ、この教えが時宗とよばれるようになる。

 【臨済宗】禅宗はひたすら坐禅することによって人間のうちにある仏性を自覚し、悟りに達しようという自力の教えである。禅そのものは奈良時代にはすでに伝えられていたが、中国の宋の時代に盛んになったのをうけて、まず栄西(11411215)が臨済宗を伝えた。栄西は備中吉備津宮の神主の子に生まれ、14歳で仏門にはいり、はじめ比叡山にのぼって台密を学んだが、のち1168(仁安3)年と1186(文治2)年の2回にわたって入宋した。 1191(建久2)年帰朝してから布教をしようとしたが、比叡山の僧侶の反対にあい、朝廷から活動を禁止された。そこで、仏教の勢力の弱かった鎌倉にくだったが、鎌倉では将軍頼家や政子の帰依をうけた。京都に建仁寺を建てたのも頼家の庇護によってである。臨済宗は坐禅をくみ、師から与えられた問題(公案)を解決して悟りに達しようとする修行方法をとり、これが鎌倉武士の気風と合致して、おもに武士の間にひろまっていった。その主著に「興禅護国論」があるが、これは禅宗に対する非難にこたえ、禅宗が国家に必要なことを説いたものである。

<臨済宗の発展>栄西ののち聖一(円爾、120280)は、京都に東福寺を開き、また鎌倉に勢力をひろめた。その門下に無関(121291)・無住(1226l312)などがでている。なお北条時頼・時宗も臨済宗に帰依した。時頼は鎌倉に建長寺を建て、宋から蘭渓道隆(121378)を招いてその開山とし、時宗も同じく鎌倉に円覚寺を建て、宋から無学祖元(122686)を招いてその開山としている。また、元寇ののち元は禅僧によって日本を懐柔しようとして―山一寧(12471317)をおくってきた。執権北条貞時はこれを伊豆に幽閉したが、のち尊信して建長寺に住まわせたといわれる。

 【曹洞宗】道元120053)は源通親の子として京都に生まれたが、13歳で出家して叡山にのぼり、やがて下山して栄西の門をたたいた 24歳で入宋した道元は、帰国して曹洞宗をひらいた。曹洞宗の特色は、ひたすら坐禅にうちこむ(只管打座)というきびしい修行方法と、強い出家主義とにある。道元が北条時頼らの招きもことわって越前にゆき、この地の土豪波多野氏にむかえられて永平寺に住み、厳格な規律のもとに門下の養成にあたったのはこのためで、この教えは、おもに武士や農民の問にひろまっていった。道元には多くの著作があるが、なかでも「正法眼蔵」はその代表作であり、弟子の懐奘が道元の教えを筆録したのが「正法眼蔵随聞記」である。

 【法華宗】日蓮l22282)は安房の小湊に生まれ、12歳で仏門にはいった。叡山で台密を学んだのち安房にもどった日蓮は、大悟して日蓮宗をひらいた。彼は法華経の教えがもっともすぐれているとし、南無妙法蓮華経という題目を一心に唱えれば、そのまま仏になれるといい、国民のすべてが法華経を信仰するとき、その国土はそのまま仏の浄土になると説いた。鎌倉へでた日蓮は、当時盛んであった他の宗派にはげしい攻撃を加え、『念

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