@。しかし、この非合理性は門人からも批判をうけ、朱子学そのものも、その形式主義にしだいに疑問をもたれてくるようになった。 このほか、福岡の貝原益軒(1630〜1714)のように、いずれの学派にも属さない朱子学者もあった。彼は本草学や経済・歴史の分野にも業績をあげたが、とくに「和俗童子訓」などを著わして庶民教育に力をつくしている。 【陽明学】明の王陽明を始祖とする陽明学は、朱子学の理知主義に対して『心即理』という直覚主義の立場をとり、『致良知』『知行合一』を説くものであった。はじめ朱子学を学んだ中江藤樹(1608〜48)は、やがてこれを脱して陽明学に移り、その弟子熊沢蕃山(了介、l619〜91)は、その道徳説を政治面に適用して岡山藩の藩政確立に努力した。しかし陽明学は、現実の社会を批判してその矛盾を改めようとする革新的傾向があったために幕府から警戒され、蕃山はその著「大学或問」で幕政を批判したとしてとがめられ、また会津藩や熊本藩でも陽明学者が弾圧された。こうして陽明学は、そののち系統的な発展を示さなかったが、天保年間に幕府の儒官佐藤一斎(1772〜1859)は外に朱子学を唱えながら内に陽明学を奉じ、大塩平八郎は天保の乱をひきおこし、佐久間象山・吉田松陰・橋本左内・西郷隆盛のような人たちも、陽明学の教養を身につけて新時代の開拓につとめたのである。 【古 学】朱子学の道学化、陽明学の観念論にあきたらず、ただちに孔子・孟子の源流にかえろうとしたのが古学である。その意味で古学は日本の儒学であり、現実の把握と歴史的理解・人間性の尊重を基本的な特徴としている。最初に公然と朱子学を批判したのは兵学者山鹿素行(1622〜85)で、学問は現実の生活規範を与えなければならないとして朱子学の説く静的な修養を有害無益であると断じた。素行の「聖教要録」は、幕府の怒りをかい、彼は寛文年間(1661〜73)に赤穂へ流された。素行はまた「中朝事実」を著わして日本こそが中国・中朝であると主張している。同じころ、京都の堀川に古義堂という塾をかまえた伊藤仁斎(1627〜1705)は「論語」「孟子」の2書をおもんじ、朱子学の静止的な『理』を否定して聖人の理は『実理』であるとし、経験的知識をおもんじた。仁斎の学風をしたって集まる門下生は3000人をかぞえ、その子東涯(1670〜1736)はこの学をさらにひろめて元禄〜正徳ごろに全盛をきわめた。 江戸の荻生徂徠(1666〜1728)は仁斎の学に啓発されながら、それと異なる教学を形成した。彼は語学を基礎として中国の古典文辞を研究し、聖人の道を明らかにしようと努力し、道とは観念的なものではなく政治家である聖人が人為的につくりだした『治国の道』であるとした。こうして彼は道徳よりも政治を重視して礼楽・制度をととのえることの重要性を説き、主君柳沢吉保をつうして幕府の知遇をえるようになり、将軍吉宗の諮間にこたえて「政談」を著わした。徂徠の学は内容から古文辞学、塾名から蘐園学とよばれているがA、江戸を中心として全国にひろまり、その経世論は「経済録」の著者である太宰春台(1680〜1747)に、詩文は服部南郭(1683〜1759)にうけつがれて発展した。 |