ありましょう。それにもまして近代文化の推進に役立ったのは、競争ないし闘争の精神だと思われます。一元的思考というのは、自分の考えが唯一の正しいものだという信念に支えられているものでありますから、他人の異なった考えとは両立することができません。そこに競争や闘争を必要なものとして正当化する思想が現われてまいります。それはキリスト教の異教徒にたいする不寛容の精神に照応するものであります。

 自由主義の根底にある自由競争の精神、共産主義を支える階級闘争の精神、そのいずれもが「争い」を是認し、争いこそが文化を推進させる原動力となるものだ、という共通の思想の上に立っております。それは姿こそ変われ、砂漠の遊牧民の思想であります。この砂漠の思想の力強さは、農耕民の多元的思考法のあいまいさ、中途半端さを圧倒し、いわゆる近代文化の樹立に成功したのであります。言いかえれば多元的思考法にたいする、一元的思考法の圧倒的な勝利に終わったわけであります。

 しかしながら、現在はまさに歴史の転回点にさしかかっていると申してよいかと思います。つまり従来のように「争い」を動力として歴史を発展させることが、限界点に達したのであります。原子爆弾の出現ということが、このことを端的にしめしております。

 従来は、戦争は人類に惨禍をもたらすという限りにおいては確かに罪悪であるが、しかし人類の文化を推進する動力として必要である、つまり必要悪である、という考え方がありました。競争や闘争を是認する以上、戦争だけを否定する根拠はないからであります。事実、今までの戦争は、その結果として文化の「進歩」をもたらしたことが少なくありません。今度の日本の敗戦も、日本の歴史にとってプラスの効果をもたらした面がないではありません。

 このような「争い」を是認する哲学が弁証法であるともいえます。それは矛盾と対立とが歴史を前進させる動力であるとみる哲学であります。弁証法の立場に立つかぎり、平和を「戦いとる」という奇妙な言い方しかできません。それは言葉の矛盾であるばかりでなく、思想そのものの矛盾であります。

 しかしながら、今日なお弁証法に代わるべき有力な哲学はまだ現われておりません。必要だからといって、新しい哲学はおいそれと生まれるものではないからであります。ただ、こういうことだけは言えると思います。それは新しい哲学が、ヨーロッパ風の一元的思考の方向からではなく、日本や中国の多元的思考の方向から生まれるであろう、ということであります。

 「中国の文化と日本の文化」というような大きな問題を出しておきながら、こんな話かと失望された方も多いかと存じますが、この辺でご勘弁いただければ結構に存じます。

 

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