三、比較論

中国の文化と日本の文化

 

森三樹三郎

 ただ今、過分のご紹介をいただきまして、たいへん恐縮の至りに存じております。またこのたびはこの研修会にお招きをいただき、たいへん光栄に存じ、有り難くお受けしました。

 さて、話の内容でございますが、表題はずいぶん大きな「中国の文化と日本の文化」という、とらえどころのない名前にいたしまして、はなはだ申しわけない次第に存じております。内容はもっとしぼったところでご勘弁願いたいと思うのであります。

 私は先ほどご紹介いただきましたように中国思想史を専攻したものでありますが、学生のころは実は宗教社会学をやってみたいと思っていたのであります。そのため中国思想史を研究しながらも、宗教社会学的な関心を持ちつづけていたのでありますが、本日も主として宗教社会学の角度から、日本文化と中国文化の基本的な問題をとらえてみたいと思います。

宗教の二類型

 ご承知のように世界の宗教を大きく二つに分けますと、一神教と多神教があるということになります。もちろん、この二つの外に、汎神論というものがありますが、これはどちらかと申しますと、多神教の系列に入れることができるかと思いますので、さしあたりは問題の外においておきたいと思います。

 ところで一神教と申しますと、典型的なものとしてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教があります。これにたいして多神教は沢山ありまして、あまり典型的なものを出すことができませんが、日本や中国の宗教はこの多神教の系列に入ると思うのであります。

 そこで今日は、日本および中国の多神教、ならびにその多神教を地盤として生まれた世界観について、ごく大ざっぱなことを申し上げたいと思います。

 その前にちょっと問題になることは、それでは仏教はどうなるかということでありますが、仏教は多神教というよりは汎神論というほうがよいと思います。しかし、さきほども申しましたように、しばらく汎神論を多神教のうちに含ませておきたいと思いますので、ご了承いただきたいと思います。

 ただ、そう申しましても、なお問題になることは、弥陀一仏を信じる浄土教をどうするかということであります。浄土教はある意味でキリスト教に近い性格をもっており、一神教的な性格をもっているように言われております。けれども浄土教は、他の多くの神の存在を否定する一神教とは違いまして、多くの仏さまの存在を否定するわけではなく、ただその多くの仏さまに「選択」を加えまして、弥陀一仏を選びだすわけであります。多神のなかの一神に主役をあたえるという意味で、それは単一神教とよばれているものに相当します。これはやはり多神教の系列に入れることができるものであります。

 

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