念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊』と叫んで戦闘的な折伏をおこなった。そのため他宗の反感をまねき、また幕府からも迫害をうけた。その代表作である「立正安国論」は、1260(文応1)年、ときの執権時頼に差しだした建白書で、衆生を救うべき正法は法華経にあると断じ、早く法華経を中心とした正法の世をつくらなければ、人心は険悪となり国は乱れ、ついには外敵の侵入をまねき、国は滅びてしまうであろうとのべている。

 念仏者の告訴によって、幕府は日蓮を伊豆に流し、いったん赦免したのち、また佐渡へ流した。日蓮はのち許されて鎌倉に帰り、ついで甲斐の身延山に移った。ここに建てられたのが久遠寺であるが、日蓮はのちに常陸へむかう途中、武蔵で没した。日蓮の教えは身延山を中心に、おもに地方武士の間にひろまった。

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