を吸収して東における文明の中心地となったのであった。これが世界文明史の一般形式である。北米合衆国が担った西洋文明は今やその最先端をゆくが、それがヨーロッパ大陸の西洋文明といかに違うか。このことについては、一九六一年より二年間にわたる滞米生活と、その後の二回にわたる訪欧の経験によって明瞭に自覚することが出来た。このようなアメリカ文明はイギリス文明のブリテン島からの西進と考えるならば納得がつく。だからアメリカ文明を加えても、世界文明史の一般形式を理解する上に変更をみせる必要はない。

  一九四五年に、不敗を誇った日本が連合軍の前に敗れた時、占領軍の中心となったものは北米合衆国であった。二十世紀中葉、東アジア文明を集中的に確保し、その精髄を集約して保持する日本文明が、西洋文明の集約ともみられるアメリカ文明とまさしく肌と肌をつきあわせる恰好で邂逅したのは、日本の敗戦と云う悲劇を通してであった。この東西文明の実質的な出会いがなされた舞台が外ならぬ日本であった。敗戦後の日本は、世界文明史上、曾って先例がなく、何人も経験したことのない、東と西の文明の出会う実験場となった。この実験に耐え得るや否やが実は窮極的に問われる事態なのである。数々の混乱と紛争をこえて、おそらくは日本はそれをなし得るのではないかという見通しがここに立つと思っている。

 この確信は、先にみた日本文化の展開史上、数々の強烈な外来文化に対して発揮せられた「摂取」の態度が、今日もまた死滅せずして連続してあり、それが今日の時点で力強く働くであろうと思われるからである。

 この摂取は日本的形態の祖型と呼んでよいものである。摂取は、時として反発し、抵抗し、マイナスの反対価値であるものに対して、その存在を変革までして異質のものにするという弾圧と破壊の形をとるような態度とは違う。むしろ、より大きな理想に向うものとして「思い直し」「見直し」「向きをかえさす」ことを相手に迫る態度である。

 存在を死滅せしめないで、存在の意義を理想の次元ヘと向けかえしめることである。この場合、異った二つの存在は、当初プラス、マイナスの価値をもったものとして、お互いに反抗しあったとしても、理想のために共存するという根本の前に二つのものは等しくなることを意味する。

 つまり、二つの存在の次元をこえた根本に対して一に帰することになる。こうした「融一」とも呼ぶべき原理に貫かれたところに摂取が単なる混融とも、重層とも質的に異なる受容態度であることがわかる。

 この融一の原理をかかげた感覚及び思考が神道に結晶している。

 文化は、耕された自然である。人間が手心を加えて自然を耕した結果としての文化所産を客観文化と名付けるならば、文化所産を生み出す耕し方は主観文化と名付けられよう。

 この主観文化は、一つの組織の中で維持される人間の思考や行動の類型とみることが出来る。文化は全体として、親から子への世代間の学習過程を通して授受され、伝達されるものである。わけて文化の特徴であるこのような世代間の伝承性、連続性は、手心の加え方としての主観文化には強くあらわれる。この主観文化に比べれば、眼にみえる形相をもった文化所産 ―― つまり客観文化の方は、持続性が弱い。逆に変化性が強い。

 

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