部の平原はパリー盆地につらなる平原であったのである。だから、その後ドーバー海峡が出来て大陸から分離されても、大西洋上の孤島ではなかった。 この国の歴史はケルト人の侵略をうけることから始まっている。次いで口ーマ人の侵入をうけた。即ちカエザルの紀元前五五年、五四年のブリタニア遠征によって、イギリスは口ーマ文化圏にくみ入れられた。五世紀にはアングロ・サクソン人が大陸から侵入した。外敵の侵入はこのように容易だったのである。単に異族の侵入が容易であったばかりでなく、大陸の文化の影響も直接であった。 六世紀、ローマ教皇グレゴリウスー世によるベネディクト派修道士の派遣によって、イギリスにはローマン・カトリシズム化が急速に進んだ。十四世紀にはイタリアの文芸復興運動の渦がこの国にまきおこる。十六世紀、ヨーロッパ大陸に宗教改革がおこると、ヘンリー八世からエリザベスー世の時代にかけて、上からの宗教改革が行われた。この結果、イギリス国教会(アングリカン・チャーチ)が成立すると、これを批判し、改革する清教徒(ピューリタン)の運動がおこった。 このように、イギリスは常に大陸の影響を受けて発展した。ラテン系の文化も、ゲルマン系の文化をも摂取した。その外来文化の受容の仕方は、ゲルマン的要素をもちながらもラテン的要素を主体としたフランスのそれとも、ラテン的要素に反撥してゲルマン的要素を主導としたドイツのそれとも違っていた。 イギリス文化がフランス文化やドイツ文化と極めて強い親近性を示し乍ら、イギリスはイギリス文化と呼ばれる個性を保持し得た。この大きな原因はこの種のイギリス的孤立―地理的要因に根ざしているとみることが出来るのである。 然るに日本の場合、北九州と朝鮮南端の間には北から対馬・壱岐の二つの島がある。これらの島々は、文字通り「島伝い」を可能にすると同時に、時として朝鮮海峡、対馬海峡、更に玄海灘の荒波が、両国間の海上交通を極めて危険なものにしてきたのである。 この種の地理的距離は、大陸からの異系異族の侵入を困難なものにし、離島日本の安全を守るに適していた。又、ユーラシア大陸への交渉を適宜に調節する安全弁ともなっていた。必要とあらば、この距離をこえて出向き、又必要とあらばこの距離を自然の障壁として内に閉しこもることを可能にした。徳川の鎖国は後者のよい例である。然も大陸の情報を獲得するのに支障を来す程の距離でもなく、連続する外からの刺戟が常に新鮮な内の胎動をうながし続けたのである。 一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役は蒙古が試みた日本への侵入事件である。日本の歴史は、第二次世界大戦を除いて、後にも先にも、この種の本格的な外族の侵略事件を記していない。それすら、敵側の失敗に帰した。半島及び中国大陸との間に横たわる東支那海朝鮮海峡、対馬海峡、玄海灘のもつ海洋条件が、十三世紀における先進国の航海術をもってしても、いかに困難にみちたものであったか。世界支配の意欲にかられた蒙古が、大陸においてその意図を成功裡に遂行しながら、日本海洋上においては見事に挫折したことはよくこの間の事情を物語っていると思われる。 一方、半島の南端、百済国を通して、四世紀には、儒教及び漢字文化、六世紀には仏教
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