例えば客観文化としての政治制度は、日本における場合、徳川の幕府政体から、明治維新後の立憲君主制へ、戦後の議会制民主主義へと大きく変化している。然し、このような政治制度の変革にも拘らず、政治制度を支える政治の理念、政治哲学は一君万民の天皇制を志向している。

 客観文化としての政治制度は変っても、主観文化としての政治理念は変化し難く、連続性を保っている。古代の祭政一致にまで遡り得る政治の威じ方、考え方、行動の仕方が依然として生き続けている。かように主観文化は伝統の持続の中に生きぬいている。

 こうした主観文化は何も一つの政治に止まるものではない。全文化領城に及んでいる。個人心理学では、「三つ児の魂百までも」の諺の如く、幼児期における精神形成を決定的要因として重視する。民族心理学も又、民族が個人の場合と同じく、民族の魂を決定するものが民族の幼児期であると分析している。このように民族の幼児時代に形成せられた不動の民族性格を「民族の中核的性格(コア・パーソナリティ)」と云い慣わすようになった。

 先に主観文化と言い、今また民族の中核的性格と呼んだものはほぼ同じものを指している。だから日本文化のうちで、連続性をもち、変らずにあるものは、主観文化であり、中核的性格であると言ってよいのである。これが日本文化の場合、神道にあたるのである。

 勿論、神道は主観文化のみではない。客観文化としての、形ある文化所産を数々伴なっている。

 然し、日本文化を全体として把える時に、神道の占めた大きな役割は、何にもまして、日本の主観文化、日本民族の中核的性格の面にあるということを強調せずにはいられないのである。

 そこで何故、神道はこのような性格を荷うに至ったかを考えてみなければならないであろう。

  朝鮮半島との間にー〇〇マイルの距離を保った日本の位置は、ドーバー海峡のそれと違って、この離島に高度に同質な民族と文化を現出せしめたのであった。

 ドーバー海峡は、異族の侵入を容易にし、人種の混淆を生んだ。英国民衆の下からの宗教改革が、指導者の用いる公式用語であるノルマン式フランス語に対する国語改革の呼びをもっていた。こうした上下両階層の言語的不一致が問題になるような事態はついに離島日本には生じなかった。それは、異系異族による征服の機会を防ぐことによって、同質の民族、同質の言語を保持したからである。

 ユーラシア大陸との間の適度の距離は、日本的なるものの原始性を自覚せしめ、古いものに執着する性質を生む一方、外国のもつ新事実に対する新鮮な感激をも生んだ。古い日本的なるものと、これに接触する新事実に対し、それを舶来として柔和に対処する態度を生んだ。これは、孤立しながら、然も完全な孤立におちいらず、国際的斗争を摩擦としてとらえることなく、文化の輸入を文化間の生存競争としておさえるのでなく、常に、より豊かに、より統一に入る「融一の原理」に帰属せしめたからであつた。

 六世紀後半から七世紀初頭にかけて摂政の地位にあられた聖徳太子の、外来宗教としての仏教に対する摂取の態度、徳川期における本居宣長の日本的なるものの発見のための国

 

 

9